富山鹿島町教会

礼拝説教

「見ないで信ぜよ」
ダニエル書 3章8〜18節
ヨハネによる福音書 20章24〜29節

小堀 康彦牧師

1.主イエスが復活されたその日
 主イエスが復活された日、主イエスは弟子たちにその復活された御姿を現されました。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。しかし、復活の主イエスはそれをものともせずに入って来られ、ユダヤ人たちを恐れていた弟子たちの真ん中に立たれたのです。そして、「あなたがたに平和があるように。」と告げられました。主イエスはその御体に付けられた傷を、手とわき腹とを、弟子たちにお見せになりました。そして、もう一度「あなたがたに平和があるように。」と告げられたのです。主イエスを裏切り、逃げてしまった弟子たちを少しも責めることなく、繰り返し「あなたがたに平和があるように。」と告げられた。弟子たちは、この復活の主イエスと出会って、主イエスがまことに神の子であること、死でさえ滅ぼすことの出来ない命そのものであられること、そして、この方によって自分は赦されていることを知りました。主イエスは弟子たちに聖霊を与え、彼らを罪の赦しの福音を宣べ伝える者、主イエスがまことの神の御子であり復活されたということを宣べ伝える者としてお遣わしになったのです。

2.最初の伝道の失敗
 その日から一週間が経ちました。弟子たちはこの一週間何をしていたのか。聖書には何も記してありませんのでよく分かりません。しかし、これだけは言えます。復活された主イエスと弟子たちが出会った時、十二弟子の一人であったトマスはそこにいなかった。そこで、弟子たちはまずトマスに主イエスの御復活を知らせたのです。これは、主イエスの弟子たちによる最初の伝道であったとも言えるでしょう。相手は、自分たちと一緒に主イエスに従って旅を続けたトマスです。自分たちの仲間です。当然、トマスも自分たちと一緒に喜ぶものと思っていたでしょう。しかし、結果はどうだったでしょうか。失敗でした。
 24〜25節「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」とあります。復活の主イエスと出会った弟子たちが「わたしたちは主を見た。」と証言しても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」そう言ったのです。弟子たちは、自分たちの仲間であるトマスにさえ、主イエスの御復活を信じさせることが出来なかったのです。
 このトマスについては、しばしば「疑い深いトマス」「不信仰のトマス」という言い方がされます。しかし、トマスが特別疑い深かったり不信仰だったということではないと思います。誰だって、十字架の上で死んだ人が復活したと聞けば、「そんな話信じられるはずがない。」「幽霊でも見たんでしょ。」「本当に復活したのなら、その復活したという体を私が見、私が触れることが出来るでしょ。さっさとここに出してみなさい。」そんな風に言うのだと思います。私が主イエスの復活の話を聞いたときも、そう思いました。何と馬鹿な話をしているのか。そう思ったのです。
 弟子たちのトマスへの伝道は失敗したのです。しかし、話はここからなのです。私は、今まで何百何千という人たちに聖書の話をし、説教をしてきました。しかし、一回の聖書の話だけで、「なるほどこれは本当のことだ。これを信じて生きていこう。」そう思ってくれた人は一人もいません。その意味では、私の伝道者としての歩みはいつも失敗です。今もそうです。しかし、話はここからなのです。

3.八日の後
 26節「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」とあります。トマスは、主イエスが復活された日、弟子たちと一緒にいませんでした。しかし、「八日の後」、つまり主イエスが復活された主の日の次の主の日に、トマスは復活の主イエスと出会い、主イエスの復活を信じる弟子たちと一緒にいたのです。私は、これが最初のキリスト教会の礼拝であったと思っています。
 この時も弟子たちは「戸にはみな鍵」をかけていました。ここでは、19節にあります「ユダヤ人を恐れて」という言葉は抜けています。どうしてでしょう。言うまでもない、ということだったのでしょうか。そうではないと思います。弟子たちは既に復活の主イエスと出会い、聖霊を与えられていたのです。彼らは既に生まれ変わっているのです。新しい創造に与っているのです。弟子たちはこの時ユダヤ人たちを恐れていたのではなく、復活の主イエスが再び現れることを期待し、トマスにも自分たちと同じ体験をさせたいと思っていたのではないでしょうか。彼らは、トマスに「何故信じないのだ。」と言って責めたりはしなかったと思います。何故なら、トマスの姿は、復活の主イエスに出会う前の自分と同じだったからです。弟子たちはトマスに、ただ自分たちと一緒にいることを求めた。すると、復活の主イエスが現れて、弟子たちの真ん中に立ったのです。そして言われました。「あなたがたに平和があるように。」一週間前の主の日と同じことが起こったのです。復活の主イエスが現れ、弟子たちの真ん中に立って言われたのです。「あなたがたに平和があるように。」
 主の日の礼拝とは、実にこういうことなのです。私が、これが最初のキリスト教会の礼拝ではないかと考える理由は、ここにあります。この日、弟子たちは集まって何をしていたのか、何も記されていません。しかし、その弟子たちの様子は、一週間前の沈鬱な面持ちで集まっていた時とは全く違っていたと思います。彼らはトマスに、主イエスと出会った時のこと、一週間前の出来事を語っていたのではないでしょうか。すると、復活の主イエスが来られ、「あなたがたに平和があるように。」と告げてくださったのです。トマスが主の日に他の弟子たちと一緒にいた、このことが重要なのです。私共に置き換えれば、この主の日の礼拝の場にいる、これが重要なのです。ここで出来事が起きるからです。私共は、復活の主イエスと出会うために、主イエスの平安を告げる御言葉を受けるために、ここに集っているのです。今朝も主イエスは私共に告げられます。「あなたがたに平和があるように。」
 弟子たちはトマスに復活の主を伝えようとして失敗した。しかし、主の日にトマスが弟子たちと一緒にいるならば、復活の主イエスはトマスに御姿を現し、聖霊なる神様はトマスを信じる者にしてくださるのです。これが大切なのです。弟子たちも失敗した。わたしたちも失敗する。しかし、主イエスは、聖霊なる神様は、失敗しないのです。

4.主の平和
 この主イエスが告げ、主イエスが与えてくださる平和とは、いわゆる「平穏無事」ということとは少し違います。私共は様々な課題を抱えております。仕事のこと、子どものこと、親の介護のこと、いろいろな課題を抱えてここに集っています。その課題のすべてがきれいさっぱり解決しますということではないのです。課題はやっぱりあるのです。しかし、その課題を超えて、私は神様に愛されている、神様の御手の中にある、そう思えるし、実際大丈夫になるのです。極端に言えば、私共は死んでも大丈夫だというところに生きる者とされるからです。主イエスが復活されたからです。死では終わらないということを、復活の主イエスはその出来事をもって示し、「あなたがたに平和があるように。」と告げることによって、私共もまた、この復活の命の中に生きている、生かされている。そのことを教えてくださったからです。主イエスが与えてくださる平和とは、この肉体の死によっても破られることのない平和、崩されることのない平和なのです。神様との間の平和です。神の子、神の僕とされている者に与えられている平和です。

5.信じる者になりなさい
 主イエスはこの時トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」この言葉を主イエスから聞いた時、トマスはどう思ったでしょうか。言うまでもなく、この言葉はトマスが主イエスの復活を信じないと言った時の言葉です。トマスは、自分が言った不信仰の言葉を主イエスの口から聞いて、自分の不信仰、自分の罪を、言い逃れ出来ないあり方で目前に突きつけられたのです。私は、この時のトマスの思いは、主イエスを三度知らないと言った時に鶏の鳴くのを聞いた時のペトロと同じではなかったかと思います。自分が何気なく言っていた不信仰の言葉を、主イエスはすべて知っておられた。トマスは驚き、自分のすべてを知っている主イエスというお方の前に引き出されたことに恥じ入るしかなかったのではないでしょうか。
 私共は、この時のトマスを知っています。主イエスに自らの罪をはっきりと指摘され、ただ神様の御前に恥じ入るしかなかった、あの時の私です。私にも経験があります。牧師がどうして自分の生活のこんな所まで知っているのかと思うほどに自らの罪を指摘され、驚き、神様の御前に引き出され、自らを恥じ、神様の御前に赦しを求め、悔い改めた時の礼拝です。牧師は私の生活など知りはしませんでした。ただ、罪とはこういうものだと示し、その罪人を赦すために主イエスは来られ、十字架にお架かりになられたのだと説教した。しかし、その日の説教は、私のために、私だけのために語られた説教でした。
 主イエスは、この時トマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と告げられました。自らの罪、不信仰をはっきりと指摘されたトマスは、この主イエスの言葉をどう聞いたのでしょうか。彼は、自分の不信仰を露わにされて、主イエスに責められていると思ったでしょうか。そういうところもあったでしょう。しかしそれ以上に、「信じる者になりなさい。」という主イエスの招きをしっかり聞き取ったに違いないのです。自分のような不信仰な者をも見捨てることなく「信じる者になりなさい」と招いてくださる、主イエスの愛に触れたのです。

6.我が主よ、我が神よ
 だから、トマスの口から「わたしの主、わたしの神よ。」という、主イエスへの信仰告白が生まれたのです。  ユダヤ教の信仰において、神とは、天と地を造られたただ一人の神しかおられません。トマスのこの告白は、この天地を造られた唯一の神が、イエス様あなたです、ということです。旧約において「主」と訳されている言葉は、「ヤーウェ」という、神様の名を示す四文字で記されている言葉です。私共の聖書はこれをすべて「主」と訳しています。つまりトマスは、主イエスこそ天地を造られたただ一人の神、ヤーウェです、そう告白したということなのです。しかも、「私の」です。他の人がどう言おうが、どう信じようが、そんなことは関係ない。トマスとはそういう人でした。他の弟子たちが皆主イエスの御復活を信じている時も、自分は信じないと言い切った人なのです。しかし、彼は復活の主イエスと出会い、今度は、誰が何と言っても私は信じる、そう告白したのです。
 「わたしの主、わたしの神」このトマスの口から出た言葉が、教会の言葉となりました。信じることが出来なかったトマス。十二弟子の中で一番最後に主イエスを信じる者となったトマス。しかし、このトマスの告白が、二千年間キリストの教会に生き続け、これを生かす言葉となったのです。私共も今朝、共に復活の主イエスに向かって告白するのです。「わたしの主、わたしの神」と。
 私は説教の中で、主イエスあるいはイエス様という言い方しかしなはずです。「イエスはこの様に言った。」などとはとても言えません。イエス様に対して「イエス」なとどと呼び捨てにすることなど出来るはずがありません。イエス様は、我が主、我が神だからです。

7.見ないのに信じる者は、幸い
 この告白をしたトマスに対して、主イエスはこう言われました。30節「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 この言葉は、見るまで信じることが出来なかったトマスに対して、「どうして、見ないで信じられなかったのか。見ないで信じる方が、見て信じるよりも幸いなのだ。」と主イエスが言われたように読まれることが多いと思います。しかし、そうではありません。見ようと見まいと、信じる者は救われるのですから、皆幸いなのです。そもそも、トマスだけではなくて他の弟子たちも皆、復活の主イエスと出会って、復活の主イエスを見て信じたのです。見て信じたのはトマスだけではないのです。主イエスの弟子たち、使徒たちはみんな、見て信じたのです。逆に言いますと、使徒たち以外、その後のキリスト教会に生きた人は誰も、復活の主イエスを見たことはないのです。この福音書が記された頃、主イエスの弟子の第一世代、直接復活の主イエスを見た人たちは、もうこの地上での生涯を閉じておりました。この福音書を記した人は、この福音書を読むすべての人に対して、主イエスは「あなたがたは主イエスを見ていない。しかし信じている。それは何と幸いなことか。」、そう言われたのだと告げているのです。
 これと同じことを、使徒ペトロは手紙の中でこう告げました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」ペトロの手紙一1章8〜9節の言葉です。これは、この主イエスの「見ないで信じる人は、幸いである。」を言い換えたもの、同じ意味でしょう。私共は主イエスを見たことがない、でも愛している。見たことはないけれど信じている。そして、喜んでいます。それは、救われているからです。何と幸いなことでしょう。ありがたいことです。
 私共もそうなのです。トマスは、実に私共キリスト者の代表としてここにいたのではないでしょうか。トマスはディディモと呼ばれていました。ディディモとは双子という意味です。トマスは双子でした。トマスの双子の片割れが私共なのです。
 今朝も主イエスは私共に告げられます。「あなたがたに平和があるように。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。見ないのに信じる人は、幸いである。」この主イエスの招きを受け、主の平和に与り、信じる者の幸いの中、この一週もまた、主の御国に向かって歩んでまいりたいと思います。

[2013年2月17日]

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