富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「御子の内にとどまる」
イザヤ書 4章2〜6節
ヨハネの手紙一 2章18〜27節

小堀 康彦牧師

1.聖霊は今、ここに
 今朝、私共はペンテコステを記念する礼拝を守っております。ペンテコステの出来事は使徒言行録の2章に記されています。その1〜4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。先日、ノアの会でペンテコステの出来事について学んだのですが、この箇所を読んでもなかなかイメージ出来ないという感想がありました。皆さんはどうでしょうか。それで、教会学校の絵本や紙芝居でペンテコステの出来事を描いているものを見たのですが、だいたい弟子たちの頭の上に火の玉みたいなものが描かれているわけです。これは、3節にあります「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」という記述からのイメージなのでしょう。しかし、この1〜4節に記されている「激しい風」「炎」というのは、旧約以来の神様の御臨在を示すしるしであり、神様の霊が降ったのだということを語ろうとしている表現なのであって、耳に聞こえ、目に見える実際の現象を記したとは考えない方が良いのではないかと思うのです。そうでないと、何か特別な、目に見える不思議な現象が現れないと、聖霊が降っているとは言えない、そんな誤解が生じかねないと思うからです。
 このペンテコステの出来事が起きた日の最も重要なことは、主イエスの弟子たちが世界中の国々の言葉で、主イエスが誰であるのか、主イエスの救いの御業とは何か、それを誰はばかることなく語り出したということなのです。そしてまた、その言葉を聞いて、多くの人々が洗礼を受け、主イエスの弟子たちの仲間に加わったということなのです。この日、仲間に加わった人々の数は三千人であったと、2章41節には記されております。つまり、ペンテコステの出来事は、聖霊が降ることによって伝道が開始されたことを示すと共に、聖霊が降ることによってキリストの教会が誕生したということを示しているのです。
 私共が今朝、このペンテコステの記念礼拝において心に刻むべきことは、二千年前にこんな不思議なことがあったのだと思い起こすことではないのです。そうではなくて、このペンテコステの出来事があった日以来、代々の聖徒たちに、代々の教会に聖霊は降り続けており、私共にもまた聖霊を注がれ続けているということなのです。良いですか皆さん。聖霊なる神様は、今朝、今、ここにおられるのです。主イエス・キリストは誰であるか、主イエスによって与えられた救いとは何であるか、そのことが明確に語られる所に、聖霊はいつも降っておられるのです。私共は聖霊を探し求める必要はありません。聖霊なる神様は、主イエスを信じる者の群れの中にいつも臨んでくださっているからです。

2.今も起きている聖霊なる神様の御業
 さて、使徒言行録2章41〜42節を見ますと、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあります。ここは、ペトロの長い説教が記された後、その説教に心を動かされた人々が「わたしたちはどうしたらよいのですか。」とペトロたちに問い、ペトロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と答えたのに対して、人々が洗礼を受けたということを記しているのです。私共はここで、三千人という人数に驚くかもしれません。三千人に洗礼を施すというのは、どんな風に行ったのだろうかと興味がありますが、それは横に置いておきましょう。いずれにせよ、一日に三千人に洗礼を施したということは大変なことです。確かにこれは、聖霊なる神様による大きな救いの出来事です。
 しかし、もっと驚くべき数字があります。ブリタニカによる2008年の統計によりますと、キリスト教徒は世界中で22億5千万人います。ちなみにその統計によりますと、イスラム教は15億、ヒンズー教は9億、仏教は3億8千万です。この22億5千万人のキリスト者が誕生するためには、一人のキリスト者が約60年間キリスト者であったと仮定すると、毎週80万人の人が洗礼を受けていることになるのです。毎週、だいたい富山県の人がみんな洗礼を受ける、そういうことが起き続けているのです。毎週ですよ。とんでもない数字でしょう。私共の想像を遙かに超えた数字ではないでしょうか。これが、聖霊なる神様が今もキリストの教会に注がれ続け、働き続けてくださっている、確かなしるしなのです。ペンテコステに起きた三千人の受洗という出来事は、聖霊なる神様による救いの御業の、ほんの始まりに過ぎなかったのです。
聖霊なる神様は、この毎週洗礼を受けている80万人の一人一人に出会いを与え、導きを与え、信仰を与えておられるわけです。聖霊なる神様の大いなる知恵と力とを思わずにはおられません。まことに私共の想像を遙かに超えた知恵であり力です。これが、天地を造られた全能の父なる神様の霊である聖霊なる神様なのです。

3.聖霊なる神様のお働き
 この聖霊なる神様が臨まれることによって何が起きるのか。まず、このペンテコステの出来事において、「炎」のイメージが用いられていたことを思い出しましょう。「炎のような舌が一人一人の上にとどまった」のです。この炎というのは、先ほどお読みしましたイザヤ書4章4節に「主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い」と告げられているように、裁きの炎、罪を焼き尽くす炎です。聖霊は、私共の罪を裁き、焼き尽くし、全く新しい人を誕生させるのです。人間は、自らの罪をそのままにして、新しい人になることは出来ません。ペンテコステの説教の後、ペトロが「悔い改めなさい。洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」と申しましたように、神様に敵対していた自分の歩みを悔い改め、神様に赦していただく、このことがどうしても必要なのです。そして、聖霊なる神様によって新しくしていただくのです。この全く新しい人とは、主イエス・キリストをまことの神の子、私の主、ただ一人の救い主と告白する者であり、主イエス・キリストの愛に生きる者なのです。
 もちろん、悔い改めるということ自体が聖霊なる神様の御業なのではないか、そう思われるかもしれません。その通りなのです。そしてまた、その悔い改めを引き起こす、神様の愛や救いの御業や主イエス・キリスト御自身を伝える説教、或いは人々を教会へ、聖書へと向かわせるのもまた、聖霊なる神様の御業なのです。聖霊なる神様は、全能の父なる神様の霊であり、また、主イエス・キリストの霊でありますから、この聖霊なる神様のお働きについて、私共がすべてを把握し、理解することは出来ません。先程の毎週80万人の人が洗礼を受けるということをイメージすることが出来ないほどに、私共の知恵も知識もまことに貧しいのです。この毎週洗礼を受ける80万人の人々に対して、聖霊なる神様はお働きになり、道を備え、出会いを与え、導いてくださっているわけです。それは、途方もなく大きく、深く、豊かな知恵と力によるとしか言いようがないでしょう。
 私共は、自分に与えられている信仰、あるいは一日一日の信仰の歩みというものを、この聖霊なる神様の導き、働きの中にあるものとして受け取らなければなりません。そうでないと、信仰というものを、自分の考え、生き方、決断といったレベルで受け取りかねないし、信仰の歩みと、自分の宗教心、熱心、まじめさといったものを混同しかねないからです。そのような側面がないとは言いません。しかし、ただそれだけのことならば、私共の信仰も信仰の歩みも大したものではない、つまらないものになってしまうと思います。なぜなら、そのようなもので永遠の命、復活の命に与ることが出来るとはとても考えられないからです。そうではなくて、私共が主イエス・キリストを知ったのも、洗礼を受けたのも、たどたどしい歩みながらキリスト者として歩み続けているのも、ここに教会が建ち続けているのも、私がこのように毎週講壇に立つことが出来ているのも、すべて聖霊なる神様のお働きに与っているからなのです。聖霊なる神様だけが私共に信仰を与え、罪を赦し、永遠の命を与えることがお出来になるのです。私共に信仰が与えられているということは、聖霊なる神様の御業であるが故に、それはそれは大したものなのであり、永遠の命を受けることが出来るものなのです。
 私共は使徒信条において、「我は聖霊を信ず。」と告白しています。聖霊なる神様は、確かに私共が信じ、告白している対象です。しかしそれは、私共が聖霊なる神様を外から眺めて信じているというようなことではないのです。私共は、聖霊なる神様のお働きにどっぷり浸かり、その中で生かされているのです。その現実の中で、その恵みをしっかり受け取る者として、私共は聖霊なる神様を信じているということなのです。

4.真理を知る者と反キリスト
 この聖霊なる神様のお働きに真っ向から対立する者、それが今朝与えられております御言葉、ヨハネの手紙一の18節以下に記されている「反キリスト」というものなのです。反キリストというのは、アンチキリストという言葉ですが、これはヨハネの手紙の中にしか出て来ない言葉です。反キリストというのは、22節に「イエスがメシアであることを否定する者」であり、「御父と御子を認めない者」のことだと言われています。これは、個人としてそういう人のことを指すとも理解出来ますが、それだけではなくて、主イエスをメシアとして認めない、神の御子と認めようとしない、そのような考え方、思想、信仰の有り様というものも指していると理解した方がよいでしょう。
 この手紙においては、多分、当時のキリスト教会の中に生まれた、主イエス・キリストを神の子と認めない、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命を認めない、そのような異端と呼ばれる人々を指していると思われます。一方、主イエス・キリストによる救いを信じ、これに与っている者を、「真理を知っている者」と言い、その真理に従って御子の内にとどまりなさいと勧めているのです。
 ここで、「真理を知っている者」はどういう人かというと、20節に「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」とあります。また、27節には「あなたがたの内には、御子から注がれた油があります。」とあります。この「聖なる方から注がれた油」、「御子から注がれた油」こそが聖霊であります。聖霊によらなければ、誰もイエスは主であると告白することは出来ません。イエス様が神の独り子であり、私の主であり、私を救ってくださった方であると信じ、告白することが出来るのは、ただ聖霊なる神様のお働きによります。反キリストと呼ばれる人々、あるいはその人々の考え方では、そうはならないのです。彼らは、教会史ではグノーシス主義者と呼ばれますが、イエス様を神の子、救い主と信じるだけでは十分でなく、もっと特別な知識、これをグノーシスと言いますが、それを持たなければ救われない、そして自分たちこそ、その本当の知恵、知識を持っている者なのだと主張していたのです。それはなかなか壮大な世界観であり、大した思想でありました。世界はいくつもの層から成っているといった、何か現代のテレビ・ゲームの中にあるような世界観でありましたが、当時は大変な影響力を持っていたのです。彼らの思想の中で決定的に欠けていたのは、ただ主イエス・キリストによって救われるということでした。そして彼らは、19節で「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。」とありますように、キリスト教会から出て行きました。この人たちについて行ってしまった人も少なくなかったのかもしれません。ですから、このような手紙を書く必要があったのでしょう。
 私共が救われるためには、彼らが言うような特別な知識や知恵が必要であるということは決してないのです。イエス様を神の独り子、救い主と信じるなら、それで十分なのです。誰からも、他の余計な知識を与えられる必要などないのです。いつの時代でも、大した知恵者がおります。彼らは世界観なり、宇宙観なり、歴史観なりの思想を生み出します。そして、それこそが真理であると主張するのです。しかし、良いですか皆さん。思想や世界観は、人が作ったものです。それによって、私共が救われることなどは決してないのです。そして、信仰は人が作り、教え、与えることが出来るものではないのです。信仰は、聖霊なる神様のお働きによって与えられるものです。そして、この信仰を与えてくださる聖霊によってしか、私共が永遠の命を与えられることはないのです。この聖霊が与える信仰は、神様に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことが出来る新しい人間を私共の中に生まれさせ、私共を父なる神様とイエス・キリストとの親しい交わりの中に生かしてくださるのです。そして、この交わりの中に生きることが、信仰の歩みを為すということであり、救われているということなのです。

5.御子の内にとどまる
 ヨハネは、「御子の内にとどまりなさい。」と勧めますが、これは聖霊なる神様が与えてくださった信仰に生き続けなさい、父と子と聖霊なる神様を信じ、告白しつつ生きなさいということです。聖霊なる神様のお働きによって、私共があの十字架に架かり、三日目に復活された主イエス・キリストを、神の子、救い主と信じるなら、私共は主イエス・キリストの中におり、御子は父なる神様の中におられ、私共は御子と父なる神様と親しく交わる者として生きることになるのです。そして、その交わりをはっきりした形で私共に示しているのが、聖餐なのです。私共は今から聖餐に与ります。この聖餐において、私共は聖霊なる神様のお働きの中に今自分が生かされていること、主イエス・キリストが私の中に入り、私と一つになってくださる親しい交わりの中に生かされていることを、心と体に刻むのです。キリストが私の中に、私はキリストの中に、キリストは父なる神の中に、父なる神はキリストの中に、であります。父なる神と子なるキリストの永遠の交わりの中に、私共も招かれ、加えられ、与るのです。これが、信仰によって与えられている私共の救いの現実なのです。まことにありがたいことです。この救いの現実を起こすことが出来、実際に起こし続けておられる方こそ、聖霊なる神様御自身なのです。
 今、この恵みに生かされていることを覚え、共々に御名をほめたたえたいと思います。

[2013年5月19日]

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