1.なくてはならない愛
私共には、なくてはならないもの、これがなければ生きることが出来ないものがあります。それは愛です。もちろん、生きるには水や空気や食べ物も必要でしょう。しかし、それらのものがすべて揃っていたとしても、私共は愛がなければ生きられません。それは、幼子から高齢の人まで、皆同じです。
この愛という言葉を、いろいろな言葉で言い換えることは出来るでしょう。私を受け入れてくれる。私をかけがえのない者として扱ってくれる。私に真剣に向き合ってくれる。私を理解してくれる、あるいは理解しようとしてくれる。いろいろな言い方が出来ると思います。逆に言いますと、これが愛というものだという言い方で、なかなか言い切ることが出来ない。とても豊かな内容を持っており、一つのイメージで捉えることが出来ないとも言えます。確かに、愛というものには様々な側面があり、これがすべてだとは言えない豊かさがあります。しかし、これだけは言えると思います。この愛というものは、私共と誰か他の人との関係を表しており、私共はこの誰か他の人との間で、愛と呼ばれる関係を持つことを必要としている。
この愛の交わりが傷つき壊れますと、私共は心に闇を抱えることになり、本当につらい、苦しい状態に置かれます。そして、私共は皆、そのような闇を抱えて生きているのだろうと思います。その抱えている闇の深刻さは、またその闇に対する自覚は、人によって違っていることでしょう。しかし、この闇と無縁だと言える人はいないでしょう。そのような私共に向かって、今朝、聖書はこう告げるのです。「あなたたちは愛されている。例外なく、徹底的に愛されている。だから互いに愛し合いましょう。」そう告げているのです。
2.愛の交わりを形作る者として
何故、人は愛を必要とするのでしょうか。それは、人がそのように造られているからです。創世記1章26〜27節に「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。…』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」とあります。人は、神様に似た者として、神様にかたどって創造されたのです。そして、今朝与えられておりますヨハネの手紙一4章8節に「神は愛だからです。」とあり、また16節には「神は愛です。」とあります。この愛である神様に似た者として、この神様にかたどって造られたのが私共なのです。それは、私共が、愛である神様のように愛する者、愛される者、愛の交わりを形作る者として造られたということです。ですから、私共は例外なく、愛を必要とし、愛の交わりを形作る者として生かされているのです。
私は、結婚の準備会や結婚式で必ず言うのですが、人は愛の交わりを形作る者として命を与えられた。ですから、この愛の交わりを形作るということが、私共の人生において最も重大な、最も重要な課題なのです。そのためにあなたがたは結婚するのです。そう言って、コリントの信徒への手紙一の13章を読みます。4〜7節に「愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばす、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。この「愛は」という所に自分の名前を入れて読んでもらいます。今、私の名前を入れてみますと、こうなります。「小堀康彦は忍耐深い。小堀康彦は情け深い。ねたまない。小堀康彦は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばす、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」となります。大抵、笑いが出ます。それは、私共にはここに記されている愛はないということを示しているのでしょう。しかし、ここに「イエス・キリスト」と入れたらどうでしょう。「イエス・キリストは忍耐深い。イエス・キリストは情け深い。ねたまない。イエス・キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばす、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」今度はピッタリでしょう。「神様」と入れても同じです。この愛は、主イエス・キリストの愛であり、神様の愛なのです。私共は、この愛が形作られるように歩んでいかなければならないということなのです。
では、どうすればこの愛の交わりを形作る者となることが出来るのでしょうか。それは、私共が徹底的に愛されているということを知ることしかないのではないか。そう思うのです。コリントの信徒への手紙一13章7節で、この愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。愛という言葉は私共に、何とはなしにロマンチックなイメージを持たせますが、聖書が告げる愛はロマンチックというよりも、すべてを忍び、すべてに耐えるのですから、厳しく、労苦が伴うものであるということなのでしょう。とても、自然にわいてくるというようなものではないのです。愛するには力がいるのです。愛の力、それを私共はどうするのか。それは、与えられるしかない。愛されるということにおいて与えられる。愛されているということを徹底的に知ることによって、与えられるしかないのです。
3.神を知る者は神様の愛を受け、愛する者となる
7節を見ましょう。「愛する者たち」と呼びかけ、「互いに愛し合いましょう。」と勧めています。この「愛する者たち」と訳されている言葉は、直訳すれば「愛されている人々」となります。この手紙を書いている人は、この手紙を読む人に向かって、「愛されている人々よ」と呼びかけているのですが、それは「あなたがたは神様に愛されている人々だ。そして、私が愛している人々だ。」そういう意味で、こう呼びかけているのでしょう。あなたがたは神様に愛されている。そして、私もあなたがたを愛している。だから互いに愛し合いましょう、と告げているのです。
そして、こう続きます。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神様は愛だから、神様を知る者は愛する者となる。この神様を知るというのは、神様を信じ、崇め、ほめたたえ、親しい交わりの中に生きるということです。神様がいるとかいないとか、そんなレベルで知るということではないのです。神様を、自分の父として、自分の主人として、自分を造り、自分を救い、自分を救ってくださった方として、知るということです。
そのように神様との交わりに生きる者は、神様が愛なのですから、この神様から愛を受け、愛する者となる。そう告げるのです。
そんな風に私共はなれるのか。そうなりたいけれど、本当になれるのか。そんな問いを持つ方がおられるかもしれません。確かに、私共の中にそのような愛が生まれるとは考えにくい。考えられない。それほどまでに、私共は闇を内に抱えているということなのでしょう。しかし、このことは私共の可能性の話ではないのです。神様の御業なのです。12節を見ましょう。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内に全うされているのです。」とあります。神様が私共の内にとどまってくださるのです。私とあなた、あなたと隣の人、そこに神様がとどまってくださり、愛の交わりを形作ってくださるのです。私共は神様を見ることは出来ません。しかし、この具体的な愛の交わりが形作られる所において、私共は、確かにここに神様が生きて働いてくださっているということを知ることになるのです。それは、私共一人一人が豊かな愛を持つ立派なすてきな人になるというよりも、神様に愛されていることを互いにしっかり受け止めて、自分たちも愛の交わりを形作っていこうとする者たちの間に、神様がとどまってくださり、そのような交わりを形作ってくださるということなのです。そして、そのことによって、御自身に似せて私共を造ってくださった神様の愛が全うされるということなのです。
これは神様の愛です。私共が立派な人になる、愛の豊かな人になる、そういうことによって達成されることではないのです。私はこんな者だけれども大丈夫なのかと思われるかもしれません。大丈夫なのです。神様がそうしてくださるからです。
私はおおよそ、自分が頑張って何かやり遂げることが出来たという経験がありません。日記をつければ三日坊主。運動も勉強も中途半端。でも、牧師は27年続けてこられました。これは、奇跡以外の何ものでもありません。神様はいつも、愛の交わりの中に私をおいてくださいました。神様に愛されていることを知るならば、愛したいと思いますし、そう思ったなら、そこに必ず神様がいてくださって、道を拓いてくださるのです。この神様の御業を信じれば良いのです。
4.神様の愛を知るところ
さて、私共が神様に愛されているということを、どこにおいて知るのかということでありますが、それこそが主イエス・キリストの十字架なのであります。
8節の最後で「神は愛だからです。」と告げて、9〜10節に続きます。9〜10節は、この「神は愛だ」と言うことの根拠、そう言い切れる理由を告げているのです。こうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」この言葉は、ヨハネによる福音書3章16節の御言葉を思い起こさせます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神様は、愛する独り子を世に遣わしてくださいました。それは、私の罪を償ういけにえとして、愛する独り子を、私のために、私に代わって十字架にお架けになるためでした。そのことによって私共が生きるようになるためでした。私共は、この主イエス・キリストに出会うまで神様を知らず、それ故に神様に感謝をささげることも、神様を崇めることも、祈ることも知りませんでした。ただ自らの内に抱えた闇におびえ、生かされている意味さえ知らず、飼い主のいない羊のようにさまよっていました。しかし、主イエス・キリストを知り、私共は自分の人生の主人を持つ者となり、永遠の命の希望の中を、愛の交わりを形作るように生きる者とされました。それが、まことに私共が生きる者となったということです。
主イエス・キリストと出会い、私共は愛を知りました。愛する独り子を十字架にお架けになってまで、私共に我が子よ、我が僕よと呼びかけてくださる神様の愛を知りました。その愛は、私共が置かれているつらい状況、愛の破れによる闇を打ち払い、私共の中に光を与えました。自分は愛されている者だという、揺るがない確信を与えてくれました。この愛こそが私共に生きる力と勇気とを与えてくれました。私共が神様を愛したのではありません。神様が私共を愛してくださったのです。しかも、愛する独り子を与えるほどに、徹底的に、これ以上激しく強い愛はないほどに、私共を愛してくださったのです。ここに愛があるのです。
それまでも私共は愛を知っていたつもりでした。親子の愛、兄弟の愛、友情、男女の愛、夫婦の愛、どれも麗しいものです。しかし、その愛はしばしば破れるのです。破れて、私共の心に闇を作ります。しかし、主イエス・キリストの十字架によって神様の愛を知った時、自分が本当に愛されている者なのだということを知りました。そして、神様の愛の光が私共の心に注がれ、私共は心の闇を吹き払われました。同時に、今まで自分に与えられていた愛のすべてが、たとえそれが欠けがあり、破れがあったものであったとしても、それは父なる神様から出ており、神様の愛の具体的な現れとして私に与えられていたものであることを知りました。そして、自分はどんなに愛されている者であるか、愛され続けてきたかということを知りました。
愛されている。そのことが私共に、自分の本当の価値を教えます。私共は、何かが出来るから価値があるのではありません。そんなことなら、子どもや老人には価値がなくなってしまいます。人間の価値とは、そういうことで決まるものではないのです。私共は、神様が独り子を十字架に架けてまで救おうとされた者である。ここに私共の本当の価値があるのです。世の人がどう思おうと、どう評価しようと、そんなことは関係ないのです。神様は私を愛してくださっている。独り子を私の身代わりに十字架に架けてまで、私を生かそうとしてくださった。ここに私の本当の価値、絶大な価値があるのです。まことにありがたいことです。この価値をお互いに知っている者によって形作られる共同体が、神の家族としての教会なのです。ですから、ここで私共は愛を知り、愛を学び、愛する者として成長していくのです。
5.愛に応える
さて、私共はこの神様の愛にどう応えることが出来るのでしょうか。そもそも、与えられた愛というものは返しようがありません。私の父はもう17年前に天に召されました。その父から受けた愛は、もう返しようがないのです。母は同居してくれていますが、愛を返すということにはなっていない。感謝することは出来ますが、愛は返すことが出来ない。愛というものは返しようがないものなのです。返してもらうことを求めたのでは、既に愛ではありません。
愛は返せません。しかし、応えることは出来ます。聖書は、神様から受けた愛を神様に返すことは出来ないけれど、その神様の愛に応える道があることを教えています。それが、「互いに愛する」ということなのです。私共は、御子を十字架に架けるほどの神様の愛を受け取りました。この愛はお返し出来ません。しかし、これに応えることは出来る。それが、互いに愛し合うということです。
この互いに愛し合うという交わりを私共が形作ること、それこそが私共が神様に似た者としてこの地上での命を与えられた意味であり、目的です。しかも神様は、この目的のために独り子さえも十字架にお架けになったのですから、私共がこの目的に適う歩みを為そうとするならば、神様はその全能の御力を持って私共を守り、支え、導いてくださるに違いないのです。ですから、私共は愛の交わりを形作ることにおいてあきらめることはないのです。何度破れようと、あきらめてはいけないのです。神様に愛されている私共なのですから、全力で愛の交わりを形作ることに取り組み、神様の助けを求め、精一杯歩んで参りたいと心から願うのであります。
[2013年6月30日]
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