1.汚れた霊・悪霊
主イエスと弟子たちは、安息日にガリラヤ湖畔の町カファルナウムの会堂に行きました。会堂で主イエスが安息日の礼拝において聖書を解き明かしておりますと、汚れた霊に取りつかれた男が叫び出しました。主イエスはこの汚れた霊を叱り、男から汚れた霊を追い出されました。これが先週見た、主イエスが神の子、救い主として、公に人々の前に姿を現されて最初になさったことでした。主イエスは神の国、つまり神様の御支配ですが、これを来たらせるために来られた方です。一方、汚れた霊、悪霊というのは、神様の御支配に敵対する、神様の御支配を阻害しようとする存在です。ですから、主イエスが望もうと望むまいと、人々を虜にしている汚れた霊、悪しき霊と主イエスは対決せざるを得ないのです。福音書を読んでいきますと、イエス様がおいでになる所ではしょっちゅう汚れた霊や悪霊が出て来るのですけれど、これは少しも偶然ではないのです。汚れた霊や悪霊だって滅ぼされるのは嫌ですから、その存在を賭けて主イエスに抵抗し、対抗するのです。ちなみに、汚れた霊と悪霊とは、あまり区別することはないと思います。どちらも、神様の御支配に対して従おうとしない霊のことです。
この汚れた霊や悪霊についてもう少しお話ししますと、イエス様の時代には、病気は悪い霊の仕業だと思われておりました。現代の日本においては、悪い霊によって病気になる、がんになったり糖尿病になったり脳梗塞になったりするとは、誰も考えません。医学によって合理的な説明がされ、治療が為されます。しかし、聖書に記されていることは昔の人の考えていたことであり医学的には全く間違いであって、汚れた霊や悪霊など存在しないと考えるのは、少し単純すぎるでしょう。汚れた霊や悪霊は、その時代や場所によって所業が違うというのが私の理解です。現代の日本には悪しき霊はいない。私共には関係ない。そう言えるほど、事柄は簡単ではないのです。悪しき霊は神様の御支配に抵抗する霊ですから、私共の罪を刺激し、これと結び、神様の御心に適わぬことをさせるのです。愛の交わりを破壊し、人と人とを対立させ、争わせ、人の不幸を食い物にします。今、世界に目を向ければ、様々な所で内戦や紛争が起きています。非人間的な行為が日常的に行われているのです。ここに悪しき霊が働いていないと、どうして言えるでしょうか。老人をターゲットにしたオレオレ詐欺などというものも頻発しています。幼児虐待、家庭内暴力、新聞を広げれば、そんな事件が毎日のように起きています。そこに悪しき霊が働いていないと、どうして言えるでしょう。それほどあからさまではなくても、いじめや離婚や金銭を巡るトラブルなど、私共が当事者となれば心が張り裂けるような思いをすることは山とあります。すべてが悪しき霊の仕業だと言うつもりはありません。しかし、そのような出来事を引き起こす私共の罪、強欲であったり、人を見下したりする思い、自分さえ良ければといった思い、これらは悪しき霊が大好きな環境ですから、私共が知らず知らずのうちに悪しき霊を呼び込んでいるということは、十分あり得ることなのです。
私共は、悪しき霊ではなく、聖霊なる神様の守りと支えと導きの中に生きるようにと召し出されました。そうである以上、この悪しき霊との対決というものは、避けて通ることは出来ません。悪しき霊は様々な誘惑というあり方でも私共に近づきますから、私共はこれに対してはしっかり霊的な感性を持って対処しなければなりません。何が御心に適い、何が御心に適わないのか。そのことをしっかり弁えて、悪しき霊から身を守る、家族を守る、ということが必要なのであります。しかし、私共は愚かで、悪しき霊は賢い。私共は弱く、悪しき霊は強い。粘り強い。だから、私共は主イエス・キリストに、父なる神様に、助けを求めていかなければならないのです。そのために主イエスは、「主の祈り」の中で、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」と祈ることを教えてくださったのです。
2.シモン・ペトロの家にて
さて、汚れた霊を追い出した主イエスと弟子たちは、会堂を出てシモンとアンデレの家に行きました。安息日の昼食を食べるためであったかもしれません。ユダヤ教における安息日は、めでたい祝いの日という感覚で捉えていただいたら良いかと思います。安息日には会堂に集まって礼拝をします。そしてその後、親しい友人、家族や親戚などが集まって昼食を食べる。それが、イスラエルにおいて今も続く習慣です。安息日は火を使って料理をすることは出来ません。ですから、金曜日の日没までに安息日の食事の用意をしておかなければなりませんでした。火を使わない料理なんてきっと美味しくないものだろう、などと考えてはいけません。これは、日本における「おせち料理」をイメージしていただけば良いかと思います。安息日は祝いの日ですから、家族・親戚・友人などと一緒にする安息日の昼食は、御馳走をいただきながらのとても楽しい一時なのです。
イエス様と四人の弟子は、シモンとアンデレの家に行きました。すると、シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたのです。細かいことですが、後にペトロと呼ばれるシモンは、しゅうとめがいたのですから、結婚していたと考えるのが普通でしょう。パウロは、コリントの信徒への手紙一9章5節で「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」と申しておりますので、ペトロ(ここではケファと呼ばれている)は結婚しており、妻もまたペトロと一緒に伝道していたと考えられます。カトリックの司祭のように、伝道者、教師は結婚してはいけないとは、ペトロを根拠には言えないのです。
31節「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」とあります。主イエスは、ペトロのしゅうとめの手を取って起こしたのです。この「起こす」という言葉は、「復活する」という時にも用いられる言葉です。また、「もてなした」と訳されている言葉は、執事の語源にもなった「奉仕する、仕える」とも訳される言葉です。何とも象徴的です。シモン・ペトロのしゅうとめは主イエスによって復活させられ、主イエスに仕える者となった。そんな風に読めるのです。
ここで為された癒やしは、熱を下げるという、見方によってはそれほど大したことがない癒やしです。放っておいても、彼女は数日すれば熱は下がったかもしれません。ですから、この癒やしの記事において大切な所、他の癒やしの記事と違っている所、それはこの癒やされたのがペトロのしゅうとめであったということです。主イエスの弟子の家族であったということなのです。イエス様が一番最初に病気を癒やされたのは、弟子の家族であった。これはとても大切なことです。
3.家族の救い
私共は、自分の家族の救いということを、どこまで真剣に願い求めているでしょうか。このことが問われているのだと思います。イエス様はシモンを召されたように、私共をも弟子として召し出してくださいました。この召しによって、私共は主イエスの僕、主イエスの弟子となりました。私共は主イエスと共に生きる者とされました。本当にありがたいことです。しかし、それで終わりではないのです。主イエスは、私共の家族もまた、救おうとされているのです。この主イエスの思いを、私共はきちんと受け止めなければなりません。主イエスが最初に病気を癒やされたのは、シモンのしゅうとめ、シモンの家族だったのです。これは小さなことではありません。イエス様は、御自身が弟子として召し出した者の家族をも、その愛の御手の中に置いてくださっているということなのです。
「家族伝道は難しい」とは、よく言われることです。それは、自分の家族に対して何か偉そうに言った所で、いつもの生活を見られているのですから、全く説得力がない。そういうこともあるでしょう。「お前に言われたくはない。」と言われてしまうのがオチなのかもしれません。私は、ここ数年の間に、伝道ということについて考え方が少し違ってきたと申しますか、今まで気付かなかった全く当たり前のことに気付いたことがあります。それは、「伝道はキリスト教の教えとか教理とかを伝えることではない」ということです。伝道者になって20年してやっと気付いたのですから、全く遅く鈍いことです。では何を伝えるのかと言えば、イエス・キリストを伝える、愛そのものであられるイエス・キリストを伝えるということです。教理は大切です。それはガード・レールのようなもので、私共がちゃんと天の御国に行くことが出来るように、道を外れないようにしてくれます。しかし、本当に大切なのはガード・レールではなくて、道であるイエス・キリストです。愛は言葉ではなかなか伝わりません。もちろん言葉も大切ではありますが、愛はその人を愛することによってしか伝わらないということなのです。当たり前と言われれば、まことに当たり前のことです。愛は一緒に生活する中で伝えられていくものです。この愛の伝わりの関係、これが伝道においては決定的に大切だということなのです。
そのことを考えますと、「家族伝道は難しい」というのは、家族のあり方そのもの、互いの関係が問われているということなのではないか。そう思うのです。父親の権威で子どもを教会学校に連れて来るとしても、それは幼い頃は言うことを聞いても、ある程度の年齢になるとそれでは難しいでしょう。また、夫が妻に、あるいは妻が夫に、教会に来るよう言っても、上からものを言うような仕方では、決して来てはくれないのだと思います。その人を愛し、仕える。心を交わす。それが何より大切なのでしょう。40歳を超えるあたりから、日本では夫婦の会話が少なくなってくる。そして、子どもが家を出たあたりから、ほとんど話もしなくなる。そういうことがあるのではないでしょうか。とりあえず、夫婦で温泉にでも行ってみる。映画でも見に行く。そんな時を持つことが大切なのではないか。そんな風に思うのです。「温泉に行こうか?」「はい、行きましょう。」、「温泉に行こうか?」「はい、行きましょう。」、「温泉に行こうか?」「はい、行きましょう。」、「教会に行こうか?」「はい、行きましょう。」ということなのです。こんなに上手く行くかと思う人がおられるかと思いますが、ぜひやってみてください。
4.Mさんの病床洗礼
週報にありますように、11月16日にY・Hさんの父、Mさんに、入院されていた富山逓信病院にて病床洗礼が授けられました。そして、20日午前8時30分にMさんは天の父なる神様の御許に召されました。私が司式をして、21日に前夜式、22日に葬式を行いました。三週間の入院で天に召されるという、あっという間のことだったのですが、その入院中に息子のY・Hさんがお父さんに「洗礼を受けて欲しい。」と言われたのです。これはなかなか言えることではありません。言ったところで、今まで教会に来たことがないのに、キリスト教について何も知らないのに、「ハイ」と言うわけがない。そんな思いを私共は持つものです。実は、私の父は17年ほど前に亡くなったのですが、私は父に言えませんでした。それが私の大きな悔いです。生涯最大の悔いです。私は、もうそんな悔いを残したくないと思い、母にはなんとしても信仰を伝えたいと思い、富山に来てもらいました。実に、死が近いということが分かっている中で、イエス様を信じて欲しい、洗礼を受けて欲しいということは、なかなか口に出せないものなのです。本人の思い、兄弟や親戚の思い、そんなことを気遣ってしまうということもあります。しかし、Y・Hさんは言われたのです。お父さんはもう口がきけない状態で、初めは首を振られたそうです。それはそうでしょう。教会に来られたこともないのですから。しかし、そこでY・Hさんが「僕がそうして欲しいんだ。僕の最後のお願いだ。」と言うと、お父さんは人差し指と親指で円を作って答えられたそうです。そこでY・Hさんは病院からすぐに教会に来られて、病床洗礼を受けさせたい旨を私に伝えてくださいました。この時、もう少し後で授ける予定を立てたのですが、容態が急変しまして、結局すぐに授けることになりました。お父さんにしてみれば、息子がそうしたいと言うなら、それで良いということだったのでしょう。そこにあったのは愛です。父と息子の愛の関係です。神様はそれを良しとしてくださるのです。前夜式、葬式の奏楽は、孫のY・M君が行いました。不謹慎かもしれませんが、「ああ、よかった。」そう思いました。これは事件であり、出来事です。神様は御自身の僕として召し出した者の家族をも愛し、その救いの御手の中に置くことを願っておられるからです。
私は、Y・M君が洗礼を受けてからずっと、Y・Hさんの両親が救われることを毎日祈っておりました。ですから、容態が悪いと聞いた時、「え、どうして。」そんな思いを持ちました。しかし、神様はこういう形で祈りを聞いてくださったのだと思いました。
5.主イエスに癒やされた者として
さて、32節に「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。」とあります。どうして人々は「夕方になって日が沈むと」主イエスの所に来たのか。それはこの日が安息日だったからです。安息日には癒やしを行うことも禁じられていましたし、人が歩くことが出来る距離も決まっていたのです。安息日は日没で終わります。ユダヤの一日の数え方は、日没に始まり、日没に終わるからです。そこで、夕方になり日が沈むと、安息日が終わったので、人々は病人を癒やしてもらうために、悪霊を追い出してもらうために、主イエスのもとに来たのです。その日の朝、会堂で行った悪霊を追い出すという業が、瞬く間に評判になったからでしょう。
ただの漁師の家ですから小さな家だったに違いありませんが、そこにその町の大勢の人が集まってきました。夕方から始まった主イエスの癒やしの業、悪霊を追い出すという業は、真夜中まで続いたことでしょう。主イエスは疲れたとも言わず、助けを求めにやって来た困窮した者たちを癒やし続けられたのです。
この主イエスの御業は今も継続中です。主イエスは悪しき霊を追い出し、新しい霊、神の霊、聖霊を私共に与えてくださっています。この主イエスに手を取っていただき、私共の中にある御心に適わない熱、それは富や財産に対しての執着であったり、人に対する恨みであったり、自分の不幸を嘆く思いであったり、そのようなドロドロとした熱を冷ましていただき、正気にしていただくのです。何が大切であり、何のために私共は生かされているのか、そのことをきちんと受け取ることが出来る者にしていただくのです。
悪霊は、そのようなことが起きないように、起きたとしてもまた引きずり戻すことが出来るようにと働きます。しかし、大丈夫。主イエスに触れていただいたのなら、そして主イエスに仕える者とされるなら、私共は主イエスの御手の中に生かされるからです。
この新しい一週、主に手を取って起こしていただいた者として、主イエスにお仕えし、悪しき霊の誘惑にしっかり抵抗して、御国に向かって歩んでまいりましょう。
[2013年11月24日]
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