1.クリスマスと言えば
今日はクリスマス記念礼拝です。主イエス・キリストが私共のために人となって生まれてくださった出来事を覚え、喜びと感謝をもって礼拝をささげております。
クリスマスと言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。サンタクロース、クリスマス・プレゼント、クリスマス・ケーキ、クリスマス・ツリー、クリスマス・リース、あるいはクリスマスの電飾、スーパーマーケットに買い物に行くと一日中流れているクリスマス・ソング、いろいろあるでしょう。主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの出来事は、二千年の間に実に様々な文化、習俗、習慣を生み出しました。クリスマスに関する音楽も文学もおびただしい数のものが生まれました。それらは時代や国によってずいぶん違いますが、それぞれの時代や国によって独特のものが生まれ、受け継がれ、祝われています。週報にありますように、私共はこの礼拝の後で祝会を行います。明日は子どものクリスマス会、そして24日の夜にはキャンドル・サービスを行い、キャロリングも行います。これもまた、現代の日本の教会が生み出したクリスマスの祝い方だと言って良いでしょう。どの国の教会でも、どの時代の教会でも、このようにクリスマスを祝っていたわけではありません。しかし、どのような祝い方にせよ、キリスト者はどの国においても、どの時代においても、クリスマスを喜び祝わずにはおれなかったのです。クリスマスの出来事は、それほどまでに大きく、普遍的な出来事なのだということなのです。今朝はこのクリスマスの祝い方については何も申しません。ただ、今朝は全世界で御子の御降誕を喜び祝う礼拝が捧げられていることを覚えつつ、世界で最初のクリスマス、主イエスがお生まれになった出来事そのものについて、聖書から聞いていきたいと思います。
2.全ローマからシリア州へ、そしてベツレヘムへ
ルカによる福音書の2章1~20節、これがクリスマスにおいて読まれ続けてきた聖書の箇所です。今朝は特にその前半の所を見ていきます。
この1~7節において、聖書は実に効果的に、主イエス・キリストの誕生に焦点を合わせていく記し方をしています。まず最初に1節で「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」と語り、全ローマ帝国が視野に入ります。そして2節で「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。」と語り、シリア州、これは現代の中東のあたりと考えてくださって良いかと思いますが、ぐっと焦点が絞られます。そして、4~5節で「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」と語り、主イエスの父ヨセフと母マリアが、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムという町へ向けて旅をしている姿へと焦点が合わされていくのです。
全ローマ帝国、シリア州、そしてヨセフとマリアがナザレからベツレヘムへ旅をしている姿へと、焦点がどんどん絞られていく。まるで映画の冒頭のシーンのような描き方です。ここには、二つの意味、意図があるように思われます。一つは、主イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事が、今度は逆に、ベツレヘムからナザレへ、そしてシリア州へ、更に全ローマ帝国へと広がっていく、そういう出来事だということを暗示しているのだと思います。そしてもう一つは、全ローマ帝国の皇帝アウグストゥス、あるいはシリア州の総督キリニウスという、この世において絶対的な力を持つ権力者に対して、全く無力な赤ん坊として生まれた主イエス・キリスト。本当の救い主、まことの王はどちらなのかと問いかけています。もちろん、聖書は主イエス・キリストの方だと告げているわけですが、聖書は主イエスの誕生を告げる所から既に、この世の権力者としての王と、神の御子であるまことの王イエス・キリストを並び記すことによって、本当の王とは誰なのか、そのことを示そうとしているのです。
これは大変重大な意味を持っています。それは、私共がクリスマスを喜び祝うということは、この世の権力者の上に、この世の王の上に、まことの王イエス・キリストがおられる、そのことを喜び祝うということを意味することになるからです。もちろん、キリスト教は反社会的宗教ではありません。それは、近代民主主義がキリスト教思想を基礎にして生まれたことからも明らかです。しかし、主イエス・キリストがまことの王としておられるということは、この世の権力者が絶対ではない。それはやがて消えていくもの。もっと言えば、それは主イエス・キリストの御心の中でその位置を与えられているに過ぎないものだということです。この目に見える世界がすべてではない。主イエス・キリストがまことの王としておられる神の国があるということなのです。
このことは、同じく主イエス・キリストの誕生を記したマタイによる福音書においては、もっとはっきり記されております。マタイによる福音書の2章でありますが、ここには東方の博士が「ユダヤ人の王として生まれた方を拝みに来た。」とユダヤの王ヘロデに告げます。ヘロデ王はそれを聞いて、何とベツレヘム周辺の2歳以下の男の子すべてを殺すという、とんでもない行動に出ます。彼は、ユダヤ人の王として生まれた幼児が、やがて自分の地位を脅かすに違いないと考えたからです。しかし、ヨセフとマリアそれに赤ん坊の主イエスは、お告げに従ってエジプトに逃れて無事でありました。この世の王は主イエスを亡き者にしようとしたが、そうすることは出来なかった、と聖書は告げているのです。
どんな苦しい時代、どんなひどい王が支配している国であったとしても、そこに生きる人々はクリスマスを喜び祝って来ました。そのことによって、自分たちにはまことの王がおられる。その方がやがて来られる。その方によって正義と公平、愛と真実が支配する国がある。自分たちはその国の、つまり神の国の住民である。我が国籍は天にある。そのことを心に刻んで来たのです。心に刻むことによって生きてきたのです。現代の言葉で言えば、クリスマスを祝うことによって、人々は困窮の中で良心の自由を確保してきたと言っても良いでしょう。クリスマスとは、そのような神様に似た者として造られた人間の、自由と愛と真実に生きようとする人間の、神様の御前に責任ある存在として生きようとする人間の祭りなのです。それは希望の祭りであり、生きる力と勇気を与える祭りなのです。どんなこの世の権力者たちも奪うことの出来ない喜びの祭りなのです。ですから、クリスマスは時代を超え、国境を超え、民族を超えて、喜び祝われてきたのですし、喜び祝われているのです。
3.何故、御子は馬小屋で生まれたのか?
さて、主イエスがお生まれになった世界で最初のクリスマスの日、そこには私共がイメージするクリスマスの祝いの飾りや小道具は何もありませんでした。ただ、大工のヨセフと、まだ幼いと言った方が良いほどの若いマリアが、旅先のベツレヘムの馬小屋で男の子を出産したということが記されているだけです。聖書には馬小屋でとは記されておりません。ただ7節に、生まれたばかりの子を「飼い葉桶に寝かせた」とあり、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあるので、馬小屋、家畜小屋であろうと想像するわけです。ここに「宿屋」という言葉がありますが、その当時、私共が考えるような宿泊を商売とする専門の施設があったとは考えにくいのです。普通の家の一室を借りて泊めてもらう、そういう状況を考えた方が良いでしょう。口語訳では「客間」と訳されておりました。この方が現実に近いと思います。
ここで、何故、神の御子が馬小屋で生まれたのかという問いが生まれてきます。神様なら、何もそんな所でなくても、ちゃんとした所で生まれるようにすることも出来たはずではないか。その通りです。神様は、どんな所にもイエス様を生まれさせることが出来ました。ということは、馬小屋で生まれたのには父なる神様の意図があったということになるでしょう。その意図は何かということです。
この「何故、御子は馬小屋で、飼い葉桶の中に」という問いは、「何故、御子の父は大工のヨセフだったのか。幼いマリアだったのか。」という問いとも重なります。神様は御子をローマ皇帝の子としても、大金持ちの子としても、貴婦人の子としても、大祭司の子としても生まれさせることはお出来なりました。しかし、そうはされなかった。更にこの問いは、「何故、神の御子は人間として、赤ん坊として生まれたのか。」という問いとも重なります。いや、もっと言えば、「何故、神の御子は十字架の上で、犯罪人として殺されたのか。」という問いとも重なってきます。
これらの問いはどれも、そのような生まれ方も死に方も、天地を造られた神の御子には相応しくない、どんな地上の王よりも偉大なまことの王には相応しくない、そのような思いから生まれて来る問いでありましょう。それはまことにもっともな問いであります。しかし、この「まことに神の御子に相応しくないと思われる」あり方こそ、父なる神様が選ばれ決断された、「神の御子に、まことの王に、最も相応しい」あり方であったということなのです。
主イエスは何のために来られたのでしょうか。父なる神様は何のために御自身の独り子を天から世に遣わされたのでしょうか。それは罪人を救うためです。私共を救うためです。私共のために、私共に代わって、一切の罪の裁きをその身に担われるためです。ですから、神の御子は私共と同じ人間の姿をとられたのです。この主イエスによってもたらされる神様の救いから除かれる人は一人もいません。すべての人がこの神様の救いに招かれているのです。自分は神様から見放されている、見捨てられている、そう思って生きる希望と勇気とを失いそうになっている人々に向かって、神様は「わたしはあなたを見捨てない。わたしはあなたと共にいる。あなたの苦しみ、嘆き、痛み、不安、そのすべてをわたしは知っている。わたしはあなたを愛している。あなたはわたしのもの。わたしの国に生きよ。」そう告げられるのです。その神様の御心そのものを現しておられるのが、神の御子なのです。ですから、御子は馬小屋で生まれなければならなかったし、何も輝かしい所のないヨセフとマリアが父と母でなければならなかったし、何も出来ない、何の変わった所のないただの赤ん坊として生まれなければならなかったし、犯罪人と共に十字架の上で死ななければならなかったのです。
実に、この飼い葉桶に寝かされた主イエスのお姿は、私の救いのためだったのです。私のために、イエス様は赤ん坊となって馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのです。私のためにここまで小さくなられ、私のためにここまで貧しくなられたのです。私にも娘が一人おりますが、我が子にこんな真似はさせられない、それが私共の我が子への思いでしょう。しかし、父なる神様はそうではないのです。神様のことなど何とも思わず、自分のことしか考えることが出来ず、神様など関係ない、それがどうしたとうそぶくような私共のために、御自身に敵対している私共のために、神様は、天と地を造られる前から御自身と一つであられ、全き愛の交わりの中にあった独り子を遣わされたのです。最も小さい、最も貧しい者としてです。あり得ないことです。私共の思いを遙かに超えています。しかし、これが神の愛なのです。この愛が出来事として現れた、それがクリスマスなのです。
4.主は貧しく、私は豊かに
先程、コリントの信徒への手紙二8章9節をお読みしました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。このパウロの言葉が私共の問いに対する答えなのです。主イエスは貧しくなり、私共は豊かになりました。主イエスは天から降られ、私共は天に招かれました。主イエスは人間となり、私共は神の子とされました。主イエスは十字架の上で殺され、私共に永遠の命が与えられました。まさに「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」(ローマの信徒への手紙11章33節)です。
そして、この「いと小さく」「いと貧しく」なられた神の御子を知る時、私共は謙遜ということを学ぶことになるのです。神の国から最も遠い心は傲慢です。自らの罪を知らず、神様の御前に額ずくことが出来ない心です。この傲慢の心は、キリスト者になったからといって、牧師になったからといって、完全にぬぐうことが出来るものではありません。上手くいけば自分は大した者だと思い上がり、失敗すれば平気で他人のせいにする。仕えることを知らず、愛することを知らず、まことに愚かな私共です。そのような私共が、このクリスマスの時、飼い葉桶に眠る主イエスを拝むのです。何も出来ない赤ちゃんになられた主イエス、こんなに小さくなられた神の御子を拝むのです。その時、私共は改めて、愛する者、仕える者として歩むべき事を心に刻むことになるです。それが、私のため人間としてお生まれになってくださった主イエス・キリストの恵みに応える、ただ一つの道だからです。
私共はただ今から聖餐に与ります。主イエスは聖霊としてこの場に臨み、私共に信仰を与え、このパンと杯と共に、このパンと杯の中に、自らを現してくださいます。この聖餐に与るたびに、私は十字架の主が、復活の主が、私と共にいてくださることを覚えるのです。この聖餐の中にもクリスマスの秘儀が示されております。何故、主イエスはこの聖餐において自らを現されるのか。それは、私共の信仰が強められ、いよいよ主と共にあることを覚え、御国への歩みが確かにされるためです。私共の救いを確かにするためなのです。クリスマスの謎。それは神の愛ゆえの謎なのです。私共は神様に愛されています。神様は私共のすべてを知り、私共の一足一足をその御手の中に置いてくださっています。この救いの恵みを心に刻み、心から御名をほめたたえる。それがクリスマスなのです。
[2013年12月22日]
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