1.「ともし火」のたとえと「秤」のたとえ
今朝与えられております御言葉は、イエス様がお語りになった「ともし火」のたとえと「秤」のたとえです。これはどちらも「たとえ」ですから、とても単純な話です。こういう話です。誰かが「ともし火」を持って来る。この「ともし火」というのは、小さな皿のようなものに油が入っていて、芯が浸してあって頭が少し出ている。そこに火が灯されているものです。テレビの時代劇などに出てくるものと同じ様なものを考えていただけば良いかと思います。この「ともし火」を持って来た人は、それを升の下や寝台の下に置きはしない。燭台の上に置くではないかと言うのです。「ともし火」は、ストーブを消す時を考えていただいたら良いと思いますが、消す時には嫌な臭いがします。ですから、臭いが出ないように、升をかぶせて消したのです。そして、蹴飛ばしたりしてはいけませんので、ベッドの下に入れた。ここでイエス様は、当時の生活の一場面を用いてお語りになったのです。誰かが「ともし火」を持って来たら、それは燭台に置いて部屋を明るくするのであって、消すためじゃないでしょうと言われたのです。当たり前のことです。
また、豆でも小麦でも、買う時には升のような秤で量って買うわけです。現代の日本では秤が店によって違うなんて事はありませんけれど、当時は升の大きさが店によって違い、多かったり少なかったりする。その日常の場面を用いてイエス様はお語りになっているわけです。そして、自分の秤が大きければ多く与えられるし、小さければ少ししか与えられないというのです。
2.分かるけれども分からない
この二つのたとえは、当時の日常生活の一場面を切り取ったような話ですから、話そのものは単純なもので、良く分かります。しかし、それが何を意味しているのかということになりますと、話は別です。それは、先週の種蒔く人のたとえでもそうでした。話としては難しいところは少しもない。しかし、何を言われているのか、その意味は何かということになると、さっぱり分からない。これがイエス様のたとえの、一つの大きな特徴なのです。どうして、そうなのだろうか。
話は簡単で単純だけれども、何を言っているのか分からない。私は、これと全く同じ思いを抱いたことがあります。それは、私が18歳で初めて教会に通い始めた頃に持った、説教に対しての思いです。それが全くこれと同じだったのです。牧師の語る説教は、特に難しい日本語を使うわけではない。言葉としては分かるのです。しかし、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。毎週礼拝に集っても、心に残るとか、「ああ、そうだ」と思うことが無い。今思いますと、あれだけ分からなくて、よく毎週通ったものだと思います。説教だけじゃなくて、讃美歌も分からない。祈っていることも分からない。どれもこれも日本語としては分かる。しかし、分からない。どうしてなのか。
3.聞く耳のある者は聞きなさい
イエス様はここで、23節「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。この言葉は、この前の「種蒔く人」のたとえを語られた時にも、9節で同じ言葉で言われています。「聞く耳のある者は聞きなさい。」なるほど、教会に通い始めた頃の私には、この聞く耳がなかったということなのだと思います。聞くには聞くが理解出来ない。それは聞く耳がないからなのです。実は、日本語としては分かるけれど何を言っているのか理解出来ないというのは、何も主イエスのたとえに限ったことではないのです。牧師の説教も、聖書の言葉も、イエス様のこのたとえと同じ性質のものなのです。
イエス様のたとえも、聖書が告げていることも、説教も、いつもただ一つのことを語っている。それはイエス様の福音です。イエス・キリストとは誰なのか。イエス・キリストによって与えられた救いとは何か。イエス・キリストによって救われた者はどうなるか。そのことを告げているわけです。それは、信仰を与えられなければ分かることはありません。それは、語られていることが訳の分からないことであるから分からないのではなくて、聞く者が語る者と同じ所に立っていないからなのです。こう言っても良いでしょう。語る者が伝えようとしていることと、聞く側が聞こうとしていることがズレているなら、決して話は通じない。そういうことなのだと思います。あるいは、語る者が前提としていることと、聞く側が前提としていることが違っていれば、話は通じない。そう言っても良いかと思います。イエス様はこのことを指して、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」というのは、何か上からものを言っているように聞こえるかもしれません。話を聞いて分かる奴だけが分かればいいのだ。そんな風に聞こえるかもしれません。しかし、イエス様はそんな思いでこれを告げているのではありません。牧師だって、そんな思いで毎週説教しているのではないのです。何とか分かって欲しいのです。しかし、本気で分かろうとしなければ、本気で聞こうとしなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、分からないのです。自分の耳が変わらなければ、自分が生きる上で自分が求めること、前提となっていることが変えられなければ決して分からないし、受け入れることが出来ない。それが、主イエス・キリストの福音というものなのです。
4.自分の秤が変わる
イエス様はここで、24節「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」と言われました。自分が聞いていることが何なのか、そのことに注意しなければならないのです。イエス様は、単に生活の一場面を語っているわけではないのです。当たり前です。イエス様は神の国の福音を告げているのです。私共はそれぞれ自分の秤を持っています。それは、自分の経験やこの世の常識といったもので作られたものでしょう。ある人にとっては健康が一番でしょうし、ある人にとってはお金が一番かもしれません。この自分の秤が変わらなければ、イエス様が語っていることは分からないということなのです。しかし、この秤がイエス様の求めているものに変わりますと、どんどん分かってくる。どんどん与えられてくるのです。
聖書というものは本当に不思議な書でして、一箇所分かりますとどんどん分かってくる。しかし、なかなかすべてが分かるということはない。ですから、次から次へと、どんどん与えられ続けていくものなのです。私は洗礼を受けて38年、牧師になって27年ですが、今もどんどん与えられ続け、分からせられ続けております。ほう、そういうことか、と分からせていただいています。
では、この自分の秤が変わる時の重要点は何かと申しますと、「私は罪人である」ということを知ることだと思います。あれをしてしまった、これをしてしまった。そういう意味での罪人ということでもありますが、それ以上に重大なことは、自分に命を与え愛してくださっている神様を裏切り、神様の愛に感謝することもなく、御心に適わぬ自分の欲を満たすためにばかり生きている者であったということを認めることなのです。
自分が欲することを満たそうとすることのどこが悪いのか。確かに、この世の法は、それを罰することはありません。しかし、そのことによって私共は隣り人を傷つけ、神様の御心を痛ませていたのではないですか。そのことは、すべての人は罪人ですから、人と比べてもそれは分かりません。他人と比べたら、自分はそれ程悪い人間ではない。どちらかと言えば良い人間だ、そう思うのが自然でしょう。しかし神様は、誰にも言えない、心の底にある闇の思いをも御存知です。そして、その闇の心を新しくしよう、そう言って招いてくださっているのです。そのために、イエス様は来てくださったのです。
どうして自分が罪人であるということを知ることが重要であるかと申しますと、このことが分かった時、イエス様が私のために来られ、私のために十字架にお架かりになり、私のために復活されたということが分かるからなのです。大切なのは「私のために」です。聖書の言葉が、牧師が語る説教が、私のことを言っているということが分かるようになるからです。この時、自分の秤が変わるからなのです。
5.ともし火とは何か
さて、今朝与えられておりますもう一つのたとえ、「ともし火」のたとえですが、ここで語られている「ともし火」とは何を指しているのでしょうか。すぐに思わされることは、主イエス・キリスト御自身を指しているということでしょう。確かにイエス様は、御自分を殺そうとする人たちがいても逃げも隠れもせずに、十字架に架けられて殺されるということに至りました。その結果、主イエス・キリストというお方は、当時のローマ帝国から見れば、東の辺境の地ユダヤの、更に田舎のガリラヤから出て、今では全世界において何十億という人々が主の日のたびごとに礼拝をささげるまでになっています。22節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われている通りであります。イエス様はまことの世の光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。どのように生きれば良いのかという、人生の灯台のように光を放ち続けておられます。
次に思わされることは、この光は、私共に与えられたイエス・キリストに対する信仰、愛というものだということです。この福音が記されました頃、キリスト教会は、社会における少数者であったと思います。自分はイエス・キリストを信じています。そのように明言出来ないような雰囲気があったのではないかと思います。それは私共もよく分かるでしょう。この富山で、キリスト者ですと人前で言うことは何となく気が引けるという思いが、私共もどこかであるのではないかと思います。しかし、イエス様は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われるのです。わたしの与える信仰と愛は隠そうとしても隠せるものではないということでしょう。もっと言えば、イエス様はここで「わたしが与えたともし火は、消そうにも消えない、圧倒的な力と輝きを持って、私共をそして全世界を照らし続けるものなのだ。」そう告げられたということなのではないでしょうか。
6.外に溢れ出る光
私共は、自分に与えられている信仰と愛とを、あまりに小さなものとして考えているのではないでしょうか。私共の信仰は、天と地を造られたただ独りの神様が私共に与えてくださったものであり、それは私共自身をそしてこの世界を造り変えていく大きなものなのです。現代人は、信仰というものを自分の心の中のことだと思っているところがあります。しかし、それは正しくないのです。主イエス・キリストが与えてくださった信仰そして愛は、まさに神の独り子が聖霊として私共の中に宿り給うことによって与えられるものであって、それは到底私共の心の中に収まりきることが出来るような小さなものではないのです。私共に注がれた主イエスへの信仰も愛も、それは私共から外に向かって、隣り人に向かってあふれ出していくものなのです。
預言者エレミヤはエレミヤ書20章9節でこう言っています。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」預言者エレミヤは、もう主の言葉を語るまいと思った。それは語れば語るほど、自分が同胞たちから浮いてしまい、恨みと憎しみを受けるばかりだったからです。しかしエレミヤは、語ることを止めたままでいることは出来なかった。神様の言葉が自分の中で火のように燃え上がり、押さえつけることが苦しくて苦しくて、とてもそうすることが出来なかったと言うのです。私共に与えられている信仰のともし火とはそういうものなのでしょう。
神様の言葉を伝えていく、主イエスの救いの恵みを伝えていくというのは、いつでも相手に喜ばれ感謝されるとは限りません。また、語ることや愛の業がいつでも相手に通じるとも限りません。むしろ成果が現れないことの方が多いでしょう。無駄なことをしているのではないか、そう思うこともあるでしょう。しかし、イエス様は25節「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と告げられます。これは主イエスの約束です。信仰が与えられ、それを喜び、神様の御業に仕える者は、更に与えられるのです。いよいよ神様を信じ、イエス様を信じ、神様を愛し、イエス様を愛するようになるのです。いよいよ神様が生きて働いてくださっていること、そのために自分が用いられていることを知るようになるのです。いよいよ自分の秤が変えられていくのです。何が大切なことであり、何を求めて生きていけば良いのかが明らかにされていくのです。まことにありがたいことです。
先週の主の日の朝、ある人から電話がありました。「20年くらい前に東舞鶴教会に行って、何日もご飯を食べていないといって、牧師様に蕎麦をおごっていただきました。そして、泊まる所がないということで教会に泊めていただき、教会でカレーライスをいただきました。それなのに、これ以上迷惑をかけたくないと思って、書き置きを残して教会を出てしまいました。憶えておられますか。」と言うのです。正直な所、全く憶えておりませんでした。そういう人は何人もおりましたので、どの人なのか、さっぱり憶えておりませんでした。御礼の手紙を出したいので住所を教えてほしいということで、住所をお教えしましたら、一昨日御礼の葉書が届きました。大阪の教会で洗礼を受けてクリスチャンになられたということでした。今まで何人もの人を教会に泊め、食事を出してきましたが、こんな礼状を受け取ったのは初めてでした。別に、この人に伝道しようと思ってそうしたわけではありません。ただ、教会という所はそういう人がよく来ますし、「靴屋のマルチン」の話を思い出して、お金はあげませんが、食事を差し上げたり、雨風を防ぐだけでしょうが泊めてあげたり、出来るだけのことはしてあげようと思ってきました。主に富士美さんが世話をしてくれるのですが、教会に住んでいれば、このようなことはしょっちゅうあります。牧師館に住まなければ分からない、牧師の生活の一コマでしょう。この礼状には、「これから毎日、小堀牧師様のためにお祈りし続けます。」とまで書いてありました。ありがたいことです。
神様はこのように、私共が特に意識していない業でも用いてくださって、救いの御業を前進させておられるのです。そして、このような出来事を通して、主が生きて働いてくださっていることを、私共を用いてくださっていることを、教えてくださるのです。まさに持っている人は更に与えられるのです。
いよいよ、主の救いの御業にお仕えする者として、私共一人一人が用いられていくことを願い求めるものであります。
[2014年3月30日]
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