1.神の民であり続けるために
私共は神の民であります。神様のものとされた者であり、神様の御業にお仕えする者です。一切の罪を赦され、神の子、神の僕とされた者です。洗礼を受けたということは、そのような者にされたということです。しかし、私共が神の民であるということは、神の民になり続けるということでもあるのです。一度神の民になってしまえばそれでもう良い、それでお終いということではありません。神の民となり続ける、神の民であり続けることが大切なのです。神の民であり続けるとは、神様との親しい交わり、生き生きした交わりの中に生き続けるということです。神様に愛された者、愛されている者として、神様を愛し、信頼し、従っていくということです。この生ける神様との交わりを失ってしまえば、信仰は形だけのものになってしまうでしょう。それは、人間の本性とでも言うべき罪が、私共にいつでも働きかけているからです。私共と神様との交わりを邪魔しようとして、罪が働くのです。ですから、私共はこの自らの罪と戦うこと無くして、神の民であり続けることは出来ないのです。この地上の歩みにおいて、私共はこの罪との戦いから逃れることは出来ません。この戦いを止めた時、私共は自ら神の民であることも止めることになってしまうからです。
この私共の心の一番深い所、根っこのような所にあります罪というものは、私共を神様に敵対するように、神様の方に顔を向けさせないように、神様なんて関係ないと言って生きるようにと、引きずって行こうとします。それは、別の言い方をしますと、「私は正しい」ということを主張させようとする力として働くものなのです。罪は、決して自らの罪を認めない、そのように働くのです。それは神様に対してもそうですし、社会に対してもそうですし、人と人との関わりにおいてもそうです。どんな時でも、誰に対しても、私は悪くない、私は間違っていない、私は正しい、そう主張しようとするのです。これは本当に根深いものです。それは誰の心の中にもあります。
私共は本当に自分の罪を認めようとしません。ところが、ただ神様の御前に立つ時だけ、私共は自らの罪を認めることが出来るのです。まことの愛、曇り無き真実なお方の前に出る時、私共は自らの中に愛が無いことを知らされ、自分のことしか考えていない自らの罪を露わにされ、自らの罪を認めざるを得ないのです。そして赦しを求めます。これが悔い改めです。この悔い改めをもって神様との交わりに生きる、それが神の民なのです。神様の御前に立って、自らの罪を悔い、赦しを求め、神様が与えてくださる罪の赦しの中を、御心に従う者として歩み出していく。それが、神の民であり続けるということなのです。
2.律法主義の始まり
イスラエルの民は、アブラハム以来、神の民でありました。しかし、今申しましたような意味において、つまり神様の御前に自らの罪を認め、悔い改め続ける者として神の民であり続けたわけではありませんでした。イエス様の時代、ユダヤ教は、聖書には記されていない数々の掟を作り、それを日々守ることによって、正しい者、神様の救いに与る清い者であろうとしていたのです。その代表がファリサイ派であり、律法学者たちでした。人間が作った数々の律法、これを口伝律法、ハラカと呼びますが、これが生活の隅々にまで張り巡らされておりました。これを間違いなく守ることによって、神様の御前に清い者、神の民であろうとしたのです。
どうしてそういうことになったのかと申しますと、イエス様の時代より遡ること約600年、バビロン捕囚という出来事がありました。ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされ、おもだった人々はバビロンに連れて行かれたのです。この出来事は神の民イスラエルにとって大変な衝撃でした。イスラエルは紀元前922年に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しておりました。そして、このバビロン捕囚の130年ほど前に、既に北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされていたのです。ですから、このバビロン捕囚によって、神の民であるイスラエルの王国はその二つともが滅んでしまったのです。
神の民がどうして滅ぼされるのか。天地を造られた神様が共にいてくださるのなら、どうして滅ぼされるようなことが起きるのか。神様はおられないのか。そのような深刻な信仰の危機に陥った時、多くの預言者が現れました。旧約聖書にありますイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書といった、人の名前が付いて何々書という書名のものは、すべてこの時代に現れた預言者たちによる書です。彼らは、律法を守らず、神様を頼らず、神の民としての実質を失っていたが故に、神様は神の民を懲らしめられたのだと告げたのです。そして、バビロン捕囚に遭ったユダ王国の人々は、異国バビロニアにおいて本気で神様に従っていく道として、聖書に記されている律法をより完全な形で守るために、聖書には記されていないたくさんの掟、口伝律法を作り、これを守ることによって二度と滅びることがないようにしよう、神の民としての歩みをより確かなものにしようとしたのです。それが、イエス様の時代の律法主義の始まりだったと考えられています。
3.神の御前に立っていない
このように見ていきますと、厳格に律法を守って救われようとするこの律法主義も、日常の生活の全ての歩みにおいて、より神様に完全に従っていこうという意図だったのですから、動機そのものは悪いものではなかったと言えるかもしれません。しかし、それが500年も経ちますと、これが「私は正しい」と主張しようとする人間の罪に利用されてしまったのです。覚えきれない程たくさんの口伝律法が作られました。これを守るのは、並大抵のことではありません。そして、これを守ることが出来る人、守ろうとする人は、たくさんの口伝律法を守るということを、自らの正しさや自らの清さを主張することの根拠としてしまったのです。本来、神の民は、神様との交わりにおいて自らの罪を知らされ、罪の赦しを求め、神様の前にへりくだるべきものでありました。そうする以外に、神様の御前に立つということは、出来ようはずがないのです。ところが、いつの間にか、自らの正しさを神様の御前に主張するということになってしまったのです。ここには、神の民と神様との本来の交わりはありません。どんなに立派に律法を守ろうとも、どんなに正しい者であろうとしても、聖なる神様の御前に立つならば、自らの清さや正しさなど主張出来るはずもないのです。ところが、それをしている。イエス様は、そのようなファリサイ派の人々に対して、「あなたたちは神様の御前に立っていない、聖なる神様との本当の交わりの中に生きてはいない。」そう告げられたのです。
前回見ましたように、イエス様の弟子たちの中に、食事の前に手を洗わない者がいたのです。それを見たファリサイ派の人々と律法学者が、なんということかとイエス様に迫った。それに対してイエス様は、ファリサイ派の人々に向かって「あなたたちは偽善者だ。口先で敬っているだけで、その心は神様から遠く離れている。神の掟を捨てて、人間の言い伝えを守っている。神の言葉を無にしているのだ。」と、大変厳しい言葉で応えました。それは、「食事の前に手を洗うことによって、汚れから身を守ろうとするその姿勢そのものが、全く間違っている。神様が求めているのはそんなことではない。神様との交わりに生きるとは、そういうことではないのだ。」そうイエス様は言われたのです。
4.汚れではなく罪
ファリサイ派の人々や律法学者たちが完全に間違ってしまっていたこと。それは、自らの罪に全く気付かいていないということでした。気付かないから悔い改めようもない。自分は清い、自分は正しいと思っているのですから、悔い改めるはずがないのです。イエス様はこう告げます。15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」これはとても大切なことをお語りになったのですけれど、多分、群衆も弟子たちも、この時何を言われているのかよく分からなかったのだと思います。ですから、17節「イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。」となるのです。それは、この「汚れ」という考え方、物の見方というものが、それほどに当時のユダヤにおいて当たり前のことだったからなのでしょう。汚れは外からやって来ます。しかし、イエス様は、「罪」を問題にしなければ神様との正しい交わりに生きることは出来ない、そう言われたのです。「汚れ」から「罪」への転換です。これは大転換です。
この汚れという考え方は、大凡どの宗教にもあるのでしょう。日本人にも馴染みの考え方です。現代ではその感覚も薄くなっていますが、葬式の後の塩などは、この汚れを清めるという発想によるものです。ですから、教会の葬式においては塩は配りません。日本では昔から、死や血というものに対して、汚れという感覚を持っているようです。源氏物語の中に、既に出てきています。しかし、神様がそしてイエス様が問題にしているのは、「罪」なのです。罪は外から来るのではありません。私共の中にあるのです。この人間の最も深い所にある罪をどうするのかということです。手を洗ったくらいでどうにもならないことは明らかでしょう。
イエス様は、弟子たちにもっとはっきりと教えようと、18~20節で「イエスは言われた。『あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。』更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。』」と告げられました。
食べ物は、腹に入って外に出るだけだ。心には何の影響も与えない。これは、現代人の私共にとっては、違和感なくうなずくことが出来ることでしょう。しかし、当時のユダヤ教においては、何をどのように食べるのかということが大問題だったのです。食べてはいけないという食べ物のリストが、申命記14章とレビ記11章にもあったからです。豚は食べられません。ウナギやドジョウ、イカ、タコも駄目。昆虫も駄目です。この食物規定は初代教会においても大問題で、教会の中でユダヤ人と異邦人が同じ食事をしないということが起き、これが大問題になったのです。この食物規定の問題は、使徒言行録15章のエルサレム会議を経て、乗り越えられていきます。キリスト教は、何を食べても良いのです。これは食べてはいけないという食物規定を持ちません。それは、ここでイエス様が「すべての食べ物は清められる」と告げられたことが大本になるのです。そして、その根本には、汚れではなく罪をどうするかなのだ、そのことがあったのです。
5.罪人を赦すために
イエス様は、21~22節で「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と言われます。ここで、人間の心から出る悪いこととして、12の悪が告げられています。これらが悪いことであるのは、説明するまでもないでしょう。ここに挙げられているのは12の悪徳ですが、12は完全数だから、ここに挙げられているのが悪のすべてだと考える必要はありません。罪の心から出て来る悪は、数え切れない程たくさんあるでしょう。今ここで、この12項目について、一つ一つ見ていく必要はないと思います。どれもこれも、私共の罪の心から出て来る悪です。これと無縁の人はいません。イエス様はここで、人間は皆罪人なのだと宣言されたのです。手を洗ったところでどうにもならない罪人なのだ。このことを忘れて神様との交わりに生きることは出来ない。そう言われたのです。
実に私共は厄介な存在です。悪い思いが次々に湧いてくる。そして、それが止めようもなく口から出てしまう。そして、親子であれ、夫婦であれ、兄弟であれ、まことに困った関係にしてしまうのです。そしてなお、私は悪くない、悪いのは相手の方だ、そう言い張るのです。それが私共の罪の現実です。しかし、イエス様はここで、私共が例外なく言い逃れることが出来ない罪人であるということを指摘されただけなのでしょうか。そうではありません。イエス様の言葉は、すべて十字架の言葉です。このイエス様の言葉も十字架の言葉なのです。イエス様の十字架の出来事と一つにして受け取らなければなりません。私共の心からは、いつも悪い思いが湧いてきます。そして、言ってはならぬことを言ってしまい、してはならぬことをしてしまう。イエス様は、そのことを良く御存知である神様によって、その問題を解決するために遣わされて来たのです。
先程、創世記のノアの箱舟の所をお読みいたしました。神様は、洪水ですべての命を絶たれた後、箱舟に乗っていた生き物から新しい世界を造られるに当たって、こう言われました。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」神様は、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と御存知なのです。そして、その上で、もう滅ぼさないと言われた。まさにこの神様の御心を実現するために、イエス様は来られたのです。
悪い思いが次々に湧いてくる私共です。その私共のために、私共に代わって、イエス様は十字架にお架かりになった。私共は例外なく罪人です。しかし、その一切の罪をイエス様が担ってくださったから、私共は神様の御前に、自分は正しいと言い張る必要はなく、安心して自らの罪を認め、赦しを願えば良い。そうすれば、神様との親しい交わりに生きることが出来る。イエス様は言われます。その道を拓くためにわたしは来た。だから、神様の前で、もう「私は正しい」と言い張らなくて良い。人と人との交わりにおいても、自分を正しい所に置いて、人々を見下したりしてはいけない。そんな風に、自分を正しさの鎧で包まなくて良い。弱く愚かな罪人であることを認めて、互いに許し合いなさい。そこに新しい道がある。
自分は正しいと言い張らないでよい道。それは愛の道であり、仕える者の道であり、自由な道です。この新しい道を歩む者として、私共は召されているのです。いつも身にまとっていた私の正しさという鎧を、イエス様の十字架の下に脱ぎ捨てて、神様との親しい交わりの中に、隣り人との愛の交わりの中に、共に歩み出してまいりましょう。
[2014年8月17日]
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