富山鹿島町教会

礼拝説教

「子ろばに乗ったまことの王」
創世記 18章1~15節
サムエル記 下 7章11~17節
マルコによる福音書 11章1~11節

小堀 康彦牧師

1.レントに入り
 先週の水曜日からレント、受難節に入りました。イエス様の御苦難を覚える時です。そして今朝与えられております御言葉は、イエス様が遂にエルサレムに入城されたことを記しております。マルコによる福音書においては、この11章から受難週の出来事が記されています。今朝与えられております御言葉は、受難週が始まる、週の初めの日の出来事が記されており、この箇所は、教会の暦では受難週が始まる主の日に読まれることになっています。イエス様がエルサレムに入られた時、人々が「葉の付いた枝」を道に敷いて迎えたと8節に記されておりますが、ヨハネによる福音書12章13節には「なつめやしの枝を持って迎えに出た。」とあります。新共同訳では「なつめやし」と記されていますが、以前は「棕櫚(しゅろ)の枝」となっておりまして、このことから受難週に入る主の日、イースター直前の主の日を「棕櫚の主日」と呼ぶようになりました。私共は今年の受難節、レントの時を、棕櫚の主日の御言葉に始まる受難週の出来事の御言葉を受けながら歩んでいくことになります。主の御受難の出来事を心に刻みつつ、レントの歩みを為してまいりたいと思います。

2.子ろばに乗ってのエルサレム入城と人々の誤解
 さて、イエス様はこの時「子ろば」に乗ってエルサレムに入られたと聖書は記します。この「子ろば」は2節を見ますと、「まだだれも乗ったことのない子ろば」であったと記されております。まだ小さくて、だれも乗ったことのないろばの子です。どのくらい小さかったのか。私は、大人が乗れば足が地面に着いてしまうくらいではなかったかと想像しています。その姿を想像いたしますと、ユーモラスと言いますか、少し滑稽な姿ではなかったかと思います。どう見ても、威風堂々という姿ではありません。どうしてイエス様はこの時、わざわざ小さなろばの子に乗ってエルサレムに入るというようなことをされたのでしょうか。その理由ははっきりしています。旧約の預言書、ゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」とあるからです。更に10節には「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」とあります。イエス様はこの預言の成就として、戦車や軍馬を絶つ王として、平和をもたらす王としてエルサレムに入られたからです。普通、王は大きな馬や馬に引かせた戦車に乗っている姿がふさわしいと考えられ、そのような姿で描かれることが多いでしょう。しかし、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入城されました。それは、イエス様がそのような王ではないからです。力で人々の上に君臨する王ではないからです。愛の王、平和の王だからです。このろばの子に乗るという、傍から見れば滑稽でさえあるような姿は、そのことを示しているのです。こんな姿で戦場に出ることは出来ません。イエス様がまことの王としてエルサレムに入られたというのは、平和の王、愛の王として入られたということなのです。
 しかし、人々はそのようなイエス様の思いをきちんと受け止めていたでしょうか。人々は棕櫚の枝、なつめやしの枝を持ってイエス様を迎えたわけですが、これは以前エルサレムを異邦人の手から解放した人を、熱狂してエルサレムに迎えた時と全く同じあり方であったと説明されます。つまり、この棕櫚の枝を道に敷き、また棕櫚の枝を手に持ち旗のように振ってイエス様を迎える人々の頭の中にあったのは、平和の王、愛の王ではなくて、その力をもってローマを打ち破り、エルサレムを、ユダヤを、ローマの支配から解放してくれる王だったのです。
 人々は口々にこう言ってイエス様を迎えたと聖書は伝えます。9~10節「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。彼らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」これは詩編118編の言葉であると思われますが、人々はイエス様を、ダビデの王国を再建する救い主として迎えたのです。この「ホサナ」という言葉は、「わたしたちに救いを」という、救いを求める祈りの言葉です。しかしこの時、この言葉は祈りの言葉というよりも、日本語での「万歳」というニュアンスで用いられています。人々はイエス様によってもたらされる目に見える救い、力の王としてダビデの王国を再建することに期待し、「万歳」と叫んでイエス様をエルサレムに迎えたのです。

3.ダビデ契約
 ところで、どうして人々はエルサレムに救い主が来ると信じ、期待したのでしょうか。それは預言者たちによって預言されていたからには違いないのですが、その根本には、ダビデに対して神様が約束されたことがあるのです。先程、サムエル記下7章をお読みいたしました。ここに、預言者ナタルによってダビデに告げられた神様の約束があるのです。11~13節「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。(この家とはダビデの家。ダビデ王朝を指しています。)あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て(この家は神殿でしょう。)、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える(この彼とは神殿を建てた彼ですから、ソロモンを指しているのでしょう)。」とあります。更に16節「あなたの家(=ダビデ王朝)、あなたの王国(=ダビデの王国)は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」とあります。つまり、ダビデ王家は、ダビデの王国は、とこしえに続くと約束されているのです。これがダビデ契約と呼ばれるものです。しかし、実際にはバビロン捕囚によってダビデの王国もダビデ家も滅んでしまいました。しかし、「神様の約束は揺るがないはずではないか。だから、ダビデの王国は必ず再興する。ダビデの子孫から救い主が生まれる。」そのようにユダヤの人々は信じ、期待するようになったのです。
 確かに、神様の約束は揺らぐことはありません。ダビデの王国は、ダビデ王家はとこしえに続くのです。そして、その預言は確かにイエス様によって成就されました。けれども、その王国とは、その支配とは、この世の王国、この世の支配ではなかったのです。神の国、神の支配だったのです。この神の国をもたらすために、神の国のまことの王としてイエス様は来られたのです。地上の王国に永遠などはありません。この時のユダヤの人々だけではありません。人は地上の王国に自分の夢・民族の夢・祖国の夢を託し、過去に繁栄を極めた王国が再興される、あるいはこの地上の王国が永遠に続く、そのような幻想を懐くものです。例えば、EUはローマ帝国の繁栄を夢見、イスラム国はオスマン帝国の再来を夢見、中国は四千年の世界に冠たる繁栄を夢見、日本は大日本帝国の再来を夢見る。そして、それぞれ軍備を進め、覇権を求める。これが現代の世界の世相でしょう。しかし、それは幻想であり、全くの妄想です。地上の王国は必ず滅びるのです。地上の王国に永遠などないのです。イエス様がもたらそうとされたのは、そんな地上の王国ではないのです。
 しかしこの時、イエス様は人々の歓迎を止めさせようとはされませんでした。それは、イエス様が「主の名によって来られる方」であることは本当だったからです。代々の預言者たちが預言してきた救い主、メシアであることは本当のことだったからです。しかしその王国は、力によらず愛によって、人の支配によらず神の支配によって、もたらされるものでした。強大な軍事力によってではなく、十字架によって、もたらされるものだったのです。

4.主がお入り用なのです
 さて、イエス様がエルサレムに入る時に乗られたろばの子でありますが、これを手に入れる時の話がここに記されています。イエス様は二人の弟子を遣わされました。彼らにこう言われます。2~3節「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」そして、二人の弟子が出掛けて行きますと、確かに子ろばがおり、「それをどうするのだ」と問われて、弟子たちはイエス様の言われた通りに答えます。すると、その子ろばを連れて行って良いと許してくれたのです。
 この出来事は、イエス様が前もって子ろばの持ち主に話をつけておいたのだと合理的に説明する人もおりますし、そうではなくイエス様の千里眼と言いますか、不思議な力を示すものだと理解する人もおります。私はイエス様の不思議な力を意味していると考えますけれども、どちらでも良いと思います。大切なのは、イエス様がこの時告げられた言葉、「主がお入り用なのです。」ここにあるからです。この子ろばは、だれかの持ち物であったに違いありません。しかし、この「主がお入り用なのです。」という一言によって、この子ろばは、イエス様のエルサレム入城という、まことの王としてイエス様が預言を成就される時の、無くてはならないものとして用いられることになったのです。
 この出来事を大変愛した人に、榎本保郎という牧師がおります。アシュラム運動という聖書を読む信徒運動を始めた方で、同志社の流れの中にある方ですが、人々に大変大きな影響を与えた牧師です。彼は、「ちいろば先生」と子供たちに呼ばれ慕われました。「ちいろば」とは小さいろばのことです。榎本牧師はこの物語を大変愛し、よく子どもたちに話したそうです。そして「自分はイエス様を乗せたこの小さいろばになりたい。」と言われたと伝えられています。小さい子ろばは力も無く、何の役にも立ちそうにないけれど、「主がお入り用なのです。」というイエス様の言葉によって、イエス様に選ばれ、用いられ、イエス様をお乗せするという大変光栄な役を果たすことが出来た。イエス様のお役に立つことが出来た。自分はこの子ろばになりたい。そう榎本牧師は言われたのです。この時この子ろばは、自分でこれがしたいとか、自分にはこれが出来るとか、そんなものは何もなかったのです。あるのはただ、「主がお入り用なのです。」というイエス様の言葉だけでした。
 どうでしょう。私共もこのイエス様を乗せたろばの子になりたいのではないでしょうか。もしそう願うのなら、そう祈ったら良い。そうすれば、イエス様は必ず、私共一人一人を用いてくださいます。しかしそう祈るなら、「自分にはそんな力はありません。」とか、「自分は他にしたいことがあります。」とか、そんなことを言ってはいけません。主がお入り用なのですから。私の思いや私の都合は横に置かなければなりません。ここでイエス様は「主がお入り用なのです。」と言われました。「主が」です。イエス様は私共の「主」、私共の主人なのです。キリスト者である、キリスト者になるということは、イエス様が自分の主人になったということです。私共は、イエス様という人生の主人を持ったのです。私共の人生の主人は、私ではないのです。
 この子ろばは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」だったのですから、人を乗せるということがどういうことなのか分かりません。どうやって歩けば良いのかも分かりません。でも、大丈夫でした。どうしてか。イエス様がちゃんと上手く乗ってくださったからです。イエス様によって用いられる時、今まで自分でしたこともない、全く経験のないことをしなければならないということもあるでしょう。私共は経験のないことに対しては、要領も分からないし、失敗したらどうしようと恐れを抱くものです。しかし、「主がお入り用なのです。」ということは、イエス様がちゃんと良いように用いてくださるということなのです。イエス様は、私共自身よりも私共を良く御存知だからです。そのイエス様が私を選び、用いてくださるというのですから、私共は安心してイエス様にすべてを委ねたら良いのです。そこに道は開かれていきます。私共が考えてもいなかった道です。
 「主がお入り用なのです。」という言葉は、イエス様が「わたしがあなたを必要とし、用いたいのだ。」と言われているということです。まことの王として、私のために十字架にお架かりになってくださったイエス様が、私にそう告げておられるのです。もっと言えば、十字架の上からイエス様が私の名を呼んで、「あなたを必要とし、用いたいのだ。」と言われているということです。イエス様は力ずくで私共を用いようとはされません。ただ私共の心に語りかけ、私共が一歩を踏み出すのを待っておられます。そして、この御声に私共が従う時、私共はイエス様を平和の王、愛の王、まことの王として受け入れ、イエス様の国、神の国の住人として歩み出すことになるのです。永遠の国、天の御国に生き始めるのです。この神の国は、決して消え去ることがありません。永遠から永遠まで生き給う神様の国だからです。復活の主イエスの国だからです。
 そしてこの神の国に生き始める時、私共の唇に備えられる祈りと賛美は、イエス様をエルサレムに迎えた時の人々と同じ言葉でありながら、その意味は全く違ったものになるでしょう。私共は神の国に生き始める時から、イエス様が来られてその御前に立つ時、ずっとイエス様に向かって「ホサナ」と歌うでしょう。しかしそれは、単に「万歳」という掛け声ではなくて、イエス様の御支配に生きるために自分自身をイエス様に差し出した者として、イエス様を平和の王、愛の王、まことの王としてほめたたえるものなのです。そして又、「ホサナ」という言葉が持つ本来の言葉の意味を取り戻し、イエス様の十字架の救いを求めて「我らを救い給え。」と祈る、祈りの言葉となるのです。

5.御国に向かって
 「主がお入り用なのです。」との御言葉に、私共が「アーメン、主よ用い給え。」と応えるなら、イエス様の御支配は、神の国は、私の心の中に打ち立てられます。そして、この教会の中にいよいよその姿をはっきりと現し出していくのです。イエス様に用いられる私共の姿は、見栄えもせず、格好良くもなく、立派でもないでしょう。まことにたどたどしい歩みでしかないかもしれません。イエス様を乗せた小さなろばのように、その姿は少しも威風堂々としていないでしょう。しかし、それで良いのです。ほめたたえられるべきは私共ではなく、イエス様であり、神様だからです。私共が主と崇め、愛し、お慕いするお方は、私のために十字架にお架かりになったイエス・キリストです。私共はこの十字架の主と共に、この方に従って、歩んでいくのです。そこに私共の誇りと希望と喜びがあるからです。

[2015年2月22日]

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