1.はじめに
今朝私共は、父・子・聖霊なる神様を拝むためにここに集まってまいりました。その私共に、神様は聖書を通して一つの出来事と二つの祈りについての教えを告げられます。一つの出来事とは、実がなっていないいちじくの木が枯れてしまったという出来事です。そして、二つの祈りについての教えとは、祈り求めるものはすべて既に得られたと信じて祈れということと、赦しの心をもって祈れということです。この一つの出来事と二つの教えは、一つにつながっています。バラバラなことではないのです。先週私共は、11章の始めから11節までの御言葉を受けました。イエス様がエルサレムにまことの王として入城された場面の御言葉です。ここから受難週の記事が始まったわけです。受難週とは、文字通り、イエス様が十字架にお架かりになった週のことです。受難週の出来事は、すべてイエス様の十字架の出来事とつながっているのです。今朝与えられている一つの出来事と二つの教えも、このイエス様の十字架と結びつき、ひとつながりになっている。このイエス様の十字架によるつながりを心に留めながら、与えられた御言葉に聞いていきたいと思います。
2.枯れたいちじくの木
イエス様がエルサレムに入城されたのは受難週の初めの日、私共の暦では日曜日の出来事です。イエス様はその日の夕方、ベタニアというエルサレムの近くの村に戻られました。そして次の日、受難週の月曜日に当たりますが、イエス様は再びエルサレムに入られ、エルサレム神殿において商売をしている人々を追い出すということをされました。これは「宮清め」と呼ばれる出来事ですが、これについては来週見ることにいたします。
イエス様はエルサレム入城をされた次の日、月曜日ですが、再びエルサレムに向かわれました。その道すがら、葉の茂ったいちじくの木を見て、実が付いていないかと近寄られたのですが、実は付いておりませんでした。すると、イエス様はその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」と言われました。そして、更に次の日、火曜日ですが、イエス様たちが再びエルサレムに入ろうとすると、その途中で昨日のいちじくの木が枯れているのを見たというのです。この出来事は何を意味しているのでしょうか。
ここで起きたことをあまり考えることなく読みますと、イエス様は空腹になった。そこでいちじくの木があったので、その実を食べたいと思って木に近寄った。けれど、実が付いていないので腹を立てて、いちじくの木を呪った。すると次の日、そのいちじくの木は枯れていたということになります。この時、いちじくは実をつける季節ではなかったのですから、実が付いていないのは当たり前なのです。それなのに、イエス様は実が付いていないと言って腹を立てて、その木を枯らせてしまわれた。イエス様は何とわがままな方かということになりかねません。イエス様もお腹がすいて短気になって、八つ当たりのようにこんなことをされた。そんな風に受け止めますと、この出来事を完全に読み間違うことになると思います。イエス様がこの出来事を為された意図、聖書がこの出来事を記している意図は、そんなことではないのです。お腹がすくと短気になるのは誰でもそうなのかもしれませんが、それをイエス様に当てはめてはダメでしょう。イエス様の十字架はもうすぐそこまで来ているのです。三日後の金曜日には十字架にお架かりになって死なれるのです。三日後に自分は死ぬということを受け止め、それを見据えながら時を過ごされているイエス様です。イエス様は大変緊迫した時を過ごしていたはずです。そういう中での出来事なのです。イエス様は弟子たちに、残り少なくなったこの地上での日々の中で、大切なこと、どうしても伝えておかなければならないことがあった。イエス様には、この出来事を通してどうしても弟子たちに教えたいことがあったのです。ですから、イエス様は弟子たちに聞こえるように、弟子たちがそのことを明日も覚えているように、わざと「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように。」と言われたのです。
では、この出来事によってイエス様が弟子たちに何としても伝えようとされたこととは一体何だったのでしょうか。それは、「求められた時に実を付けていなければ滅びる」ということです。神様の裁きがあるということです。いちじくというのは、ぶどうと並んで、ユダヤにおいては最も一般的な果物でした。そして、旧約において、いちじくはぶどうと同じように、神の民イスラエルを指すたとえによく用いられておりました。そして、神様の御心に適わない歩みをしているイスラエルの民は、酸っぱいぶどうの実を付けるぶどうの木、或いは実を付けていないいちじくの木にたとえられてきたのです。この時は受難週ですから、3月末か4月ということになります。いちじくが実を結ぶのは6月とか7月です。ですから、実が付いていないのは当然なのです。この時イエス様は、そのことを百も承知の上で、イエス様が求めた時に実を付けていないいちじく、神様の御心に適った歩みをしていない者は、神様の裁きを受け、滅んでしまう。そのことを、この出来事をもってお示しになったということなのです。
3.神様の真実を信頼する
では、その実とは何なのでしょう。イエス様が私共に求めておられる実とは何なのでしょう。それは信仰です。神様の愛、神様の憐れみを信頼することです。このイエス様が求められる実は、私共が良い人になって、良い行いを積み上げるというようなことではないのです。そうではなくて、ただ信仰なのです。神様が事を起こし、道を拓いてくださるということを信頼することです。ですからイエス様は、ペトロが「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」と告げますと、すぐに「神を信じなさい。」と言われたのです。つまり、「神を信じなさい。そうすれば、この枯れたいちじくのようにはならない。葉が青々と茂ったいちじくでさえ、一晩で枯れさせてしまう神様の力、神様の御業を信頼しなさい。」そう言われたのです。
ここでイエス様が言われた「神を信じなさい。」という言葉は、ギリシャ語を直訳しますと、「神様の信仰を持て。」となります。直訳してもよく分からない言葉になってしまいますので、「神を信じなさい。」と訳されているのですが、言われているのは「神様の信仰」なのです。「神様の信仰」という言い方が変ならば、「神様の真実」と言っても良いでしょう。神様が私共を造り、導いて、救ってくださろうとしている。その御心。そして、実際にそのことを為してくださる神様の御業。その神様の真実を信頼せよということなのです。神様を信じる私共の気持ちではなくて、それ以上に大切なことは、神様が事を起こし、救ってくださるということなのです。その御心と御業に目を向けなさいということなのです。そこに目を向けること。それが「神を信じなさい。」ということなのです。ここで、イエス様ははっきりと御自身の十字架を見ておられるわけです。神様は、イエス様を十字架に架けることによって、私共の一切の罪を赦し、神の交わり、永遠の命へと招いてくださるのです。その神様の救いの御心、救いの御業に目を向けよということなのです。
そして、その神様の真実を信頼するということは、祈りに表れてくるのです。そのような神様の真実を信頼する中で生まれてくる祈りとは、第一に「既に得られたと信じて祈る」というものだと言われるのです。23~24節で「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」とイエス様は言われました。山に向かって「立ち上がって、海に飛び込め。」と言っても、漫画じゃないのだから、山に足が生えてきて、海まで歩いて行って飛び込むなんてことはありません。イエス様はそんなことを言おうとしているのではないのです。山というのは動かないものの代表です。「動かざること山の如し」と言われるように、山は動かないのです。しかし神様は、このどうしても動かないと思える山さえも動かしてくださるということなのです。そのことを信じて祈るということです。神様は天と地のすべてを造られた方なのですから、この方が為そうとされるならば、山も動くし、星も落ちるのです。その全能の神様の力と、その力を私の救いのために用いてくださるという神様の私への愛を信じて祈れということです。これが私共に求められている信仰であり、祈りなのです。
4.八方塞がりを打ち破る神様
私共は、人生を歩んでいく中で八方塞がりのように思い、どうしたら良いのか分からずに思い悩んでしまう時があります。私はいつも言っていることですが、八方が塞がれても、いつも一方は開いている。それは天です。八方が塞がっても、天は開いている。その天に向かって、神様に向かって祈るのです。神様がこの八方塞がりの状況を、思いもしないあり方で打開してくださる。そのことを信じて祈るのです。
良いですか皆さん。神様は、私共の見通しや計画の外にいます。出エジプトの出来事を思い出してください。当時、世界最強・最大の国だったエジプトにおいて、イスラエルは奴隷でした。神様はそのエジプトから奴隷であったイスラエルの民を脱出させたのです。エジプトを脱出したイスラエルの民の前には海があり、エジプト軍が追ってきました。絶体絶命のこの時、神様は海の中に道を開いて拓いてイスラエルを助けたではありませんか。誰が海の中に道が開かれると想像することが出来たでしょう。そして40年の荒野の旅。食べ物がないのです。神様は天からのマナをもってイスラエルを養い続けられたのです。水がなくなれば、岩から水を湧き出させてくださいました。どれ一つとっても、こんなことがあるはずがない、こんなこと起こりっこない、そういう出来事をもって神様はイスラエルを助け、救い、導いてくださったのです。そして、その神様の御心と御業は、イエス様の十字架と復活において完全に成し遂げられたのです。救われるはずのない罪人である私共のために、神の独り子が十字架にお架かりになって、私共の裁きの身代わりとなってくださった。こんなことを誰が考え付いたでしょう。誰も思っていなかったことです。そして、このことによって私共は、天と地を造られた神様に向かって「父よ」と呼び奉ることを許されたのです。神様は、私共のために愛する独り子さえ惜しまないお方なのですから、私共の救いのためには何でもしてくださるのです。私共はそれを信じて良いのです。いや、イエス様はそのことを信じなさいと私共を招いてくださっているのです。
イエス様は、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われました。それは、私共が信じて祈れば、その祈りに力があって事を起こすことが出来るという意味ではありません。それは呪術、まじないの類いです。イエス様が私共に約束してくださった祈りの世界は、呪術・まじないの世界ではないのです。そうではなくて、神様との親しい交わりの世界です。神様と私共が、愛によって結ばれている。それ故に、神様の救いの御心と私共の心が一つにされ、私共は神様の救いの御業が現れることを第一に願う者される。そこでは、神様の御心と私共の心が一つにされる。そうであるならば、祈り求めるものは既に神様の御手の中で与えると決めておられるものなのですから、必ずそうなるのです。ですから、既に得たりと信じて祈ることが出来るということなのです。
私の父は18年前に天に召されました。その時私は、父に信仰を勧めて洗礼へと導くことが出来ませんでした。それは私にとって、本当に大きな悔いが残りました。どうしてあの時、父に本気で信仰の話をすることが出来なかったのか。チャンスはいくらでもありました。私が末っ子であって、家族の中での発言権が小さいということもありましたけれど、一歩を踏み出せなかった悔いがずっと残りました。そして、残された母には、何としても信仰を伝えたいと思いました。しかし、遠く離れて暮らし、年に数日しか会うことのない状況ではどうにもなりませんでした。それが、4年前に母と同居することになり、そして洗礼を授けることが出来、今日も一緒に礼拝を守っております。こんな風に同居することになるなどとは、10年前には考えたこともありませんでした。しかし、神様は私の思いや見通しを超えて事を起こし、導いてくださる。祈りは聞かれている。そのことを改めて教えていただいたのです。
神学校時代、牧師に「得たりと信じて祈れ。」と言われました。しかし正直なところ、それが分かりませんでした。父と母が救われることは、20歳で洗礼を受けて以来、ずっと私が祈り願っていたことでした。しかし、得たりと信じて祈ってはいなかったのです。どうしてか。それは、独り子をも惜しまずに与えてくださった神様の愛が、本当のところで分かっていなかったからなのでしょう。この神様の愛の激しさ、徹底性、何としてもこの罪人を救わんとする強い強い御心が分からなかった。もちろん、その愛が自分に向けられていることを知ったから、私は洗礼を受け、牧師にもなったのです。しかしその同じ愛が、私の両親にも向けられているということが、頭では分かっていても心で分かってはいなかったということなのだと思います。愛は頭では分かりません。心で受け止めるのです。神様の愛を私共が心で受け止め、神様の心と一つとされるようにイエス様は私共を招いてくださっているのです。それが、得たりと信じて祈るようにと、私共を招いてくださっている意味なのです。
5.赦しの心で祈る
さて、イエス様は続けて、祈りについてもう一つのことを教えてくださいました。25節「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」ここでイエス様が教えてくださったのは、私共が祈る時、赦しの心をもって祈るということです。これは、得たりと信じて祈ることとつながっています。神様の愛が、私だけに向けられているのではなく、この人あの人にも同じように向けられていることを心で受け止めること。そこから派生してくるのです。
私共の人生において最も大きな問題は、この赦しでしょう。私共が辛く苦しい思いをするのは、愛の交わりが破れるからです。もちろん、病気や経済的問題が、どうでも良い小さな問題であるとは言いません。しかし、私共が愛の交わりの中に身を置くことが出来るならば、それらは私共から生きる力と希望とを奪うような、どうしようもなく辛く苦しい問題とはならないでしょう。けれども、愛が破れるならば、私共は生きる力を、気力を失ってしまいます。この愛の交わりの破れこそ、私共の人生の中で山のように動かずに私共を苦しめる原因なのではないでしょうか。イエス様は、「その山が動くのだ。神様が事を起こしてくださるのだ。」そう励まし、促してくださっているのです。
私共が祈る時、私共は「父なる神様」と神様に呼びかけて祈ります。この呼びかけが成立するのは、私共のためにイエス様が十字架に架かってくださったからです。この「父なる神様」の一言が私共の唇から出る時、私共は既にイエス様の十字架の救いの中に、罪の赦しの中に身を置いているのです。このイエス様による罪の赦しの恵みに与ることなく祈ることは、私共には出来ません。そして、このイエス様の十字架による赦しに与る者は、赦す者として生きるしかないのです。
この赦しこそ、私共がそして世界が、いつの時代でも最も必要としているものなのです。赦せない、恨みと憎しみが支配する中で、私共は決して幸いになることは出来ないのです。私共の祈りは、自分の幸いを願うところから一歩出て、あの人この人との和解へと導くものなのです。それは、イエス様が平和の王だからであり、赦しを与えるために来られた方だからであり、その方によって私共が救われたからです。この祈りは、イエス様によって、主の祈りとして、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え。」という祈りとして与えられているものです。
何故私共には赦すことが難しいのでしょうか。それは、お互いに神様の御前に立つことが出来ないからです。お互いに神様の御前に立つことをしないからです。神様の御前に立つことなく、相手の誤りをあげつらい続ける。そこに和解が生まれるはずがない。私は、共に神様の御前に立つことさえ出来るならば、共に神様の御前に跪くことさえ出来るならば、必ず和解は成ると信じています。神様の御前に健やかに、互いに手を取り合って歩むことが出来ると信じています。私共はそのこともまた、得たりと信じて祈ったら良い。そうするようにと、イエス様は私共を招いてくださっているのです。
私共は今から聖餐に与ります。イエス様御自身が聖霊としてここに臨み、パンと杯を通して私共の中に入り、私共と一つになってくださいます。私共と一つになって、神様を信じ祈る者へと導いてくださるのです。私共は、この私共と一つになってくださるイエス様と共に祈るのです。私共が「父よ」と祈る時、イエス様御自身が私共と一つになって神様の前に立ってくださるのです。ここに私共の祈りがあるのです。この祈りを与えられ、この祈りへと招かれていることを、まことに心より感謝したいと思います。
[2015年3月1日]
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