1.エルサレム神殿にて
レント(受難節)第三の主の日を迎えております。今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の二日目、月曜日の出来事です。イエス様と弟子たちはエルサレムに入ると、エルサレム神殿に行きました。現在、イエス様の時代のエルサレム神殿は残っておりません。しかし、神殿を取り巻いていた外塀のほんの一部が残っていて、「嘆きの壁」と呼ばれて、世界中からユダヤ人が来て祈る場所となっています。当時のエルサレム神殿は高い塀に囲まれていて、門を入ると広場がありました。異邦人はそこまでしか入れません。そしてそこには更に高い塀があって、その門を入るとユダヤ人の女性が入れる広場があり、そこから更に階段を上って門をくぐると、ユダヤ人の男性が入れる広場となり、更にその先に祭司が入れる所があり、そして一番奥に大祭司だけが入れる至聖所がありました。エルサレム神殿は実に幾重にも仕切られており、異邦人はここまで、ユダヤ人の女性はここまで、ユダヤ人の男性はここまで、祭司はここまで、ということが厳格に決められておりました。異邦人の広場には腰くらいまでの低い塀があり、それを超えれば死罪となるという注意書きが記されておりました。この腰くらいまでの低い塀は、ソロモン王が建てた神殿の、敷地の境界線であったと言われています。
イエス様が神殿の境内に入ると、そこでは両替人や鳩を売る者たちが商売をしていました。多分、そこは異邦人の庭と呼ばれる、異邦人もここまでは入れる広場だったのではないかと思います。私共は、神殿の境内と言えば、静かな聖なる畏れに満ちた所というイメージを持つと思いますけれど、イエス様が足を踏み入れたエルサレム神殿の境内は、とてもそのような場所ではなかったようです。多くの人でごった返し、鳩が売られ、両替が為されている。しかもこの時は過越の祭りの直前ですから、祭りに来る人たちで、いつもより多くの人が集まっていたと思います。ここで鳩を売っているというのは、10羽や20羽売っているというのではありません。何百、何千という鳩が売られていたと思います。全部生きている鳩です。この鳩の鳴き声だけでも、相当騒がしかったことでしょう。
今、「祭りに来る人たちで」という言い方をしましたけれど、これは少し誤解を招くかもしれません。現代の日本人の感覚では、祭りに行くというのは、祭りに付きものの山車や御神輿を見たり、屋台で食べ物を買ったりするために行くという感じですけれど、イエス様の時代、人々が祭りのためにエルサレム神殿に行くというのはそういうことではないのです。神様を拝みに行く。礼拝に行くのです。ですから、これは巡礼と言ったら良いでしょう。律法で、ユダヤ人たちは年に何度かエルサレム神殿で礼拝しなければいけないと定められておりましたので、その律法に従って人々がエルサレム神殿に集まってきたのです。当時はローマ帝国中にユダヤ人がおりましたので、それこそローマ帝国中から巡礼の人々が集まっていたと思います。このような光景はなかなかイメージしにくいかと思いますが、現代で言えば、イスラム教徒がメッカにあるカーバ神殿に世界中から巡礼者として集まる光景に近いのだろうと思います。
2.両替と鳩売り
ここで、どうして神殿の境内で両替したり鳩が売られたりしていたのか、そのことを説明しますと、こういうことだったのです。まず、両替ですが、巡礼者たちには神殿税とも呼ばれる、毎年すべてのユダヤ人が神殿に納めなければならないものがありました。ユダヤ人たちは巡礼でエルサレム神殿に来た時、必ずこれを納めるのです。問題は、納めるお金、貨幣です。当時使われておりました貨幣は、当然ローマ帝国の貨幣です。その金貨や銀貨にはローマ皇帝の顔がレリーフとなっていました。このローマの貨幣は、エルサレム神殿では使えないのです。エルサレム神殿で使われる貨幣は、ユダヤの国が独立していた時の、自分たちで貨幣を造ることが出来た時代の、昔のユダヤの貨幣でなくてはなりませんでした。でも、そんなものはもう流通していないのですから、巡礼に来た人たちが持っているはずもありません。ですから、この両替人の所に行って、エルサレム神殿用の昔のお金に替えてもらう必要があったということなのです。
また、鳩を売る者ということですが、人々はエルサレム神殿に礼拝しに来るわけです。私共は、この身体を教会に運んでくれば礼拝が出来ると思っています。しかし、当時のエルサレム神殿における礼拝は、そうではなかったのです。犠牲をささげる。それが、エルサレム神殿における礼拝のささげ方だったのです。何をささげるかは律法に定められておりましたので、それに従ってささげるわけです。羊とか牛をささげるということもありましたが、貧しい人々はそれが出来ません。そのような場合は、鳩でも良いとされておりました。ですから、巡礼者の圧倒的多数の人々は犠牲としてささげる鳩をここで買って中に入っていく。そういうことになっていたのです。人々は遠くから、人によっては何週間もかけてエルサレム神殿に来るわけです。とても犠牲としてささげる動物などと一緒に旅することは出来なかったでしょう。しかも、神様にささげる生き物は健康で傷の無いものでなければなりませんでした。生き物を傷付けないように連れて来るのは大変です。しかしここで買えば、それは神殿印が付いていると申しますか、これは傷の無い、神様に犠牲としてささげるのに適していますという証明書付きのようなものです。神殿が保証しているわけです。当然、神殿の外で買うより割高になります。
巡礼に来る人の多くが、ほとんどと考えても良いでしょう、その人々がこの両替人や鳩を売る者たちの世話になったわけです。そして、この両替人や鳩を売る者たちからは、神殿に対するお礼といった名目で、莫大なお金が祭司たちに入る仕組みになっていたわけです。言うなれば、神殿ビジネスと言っても良いようなことが公然と行われていたのです。
皆さんはこのような話を聞いてどう思われるでしょうか。両替人や鳩を売る人々は巡礼者のためのサービスとしてやっているわけで、特に問題は無いのではと思われるでしょうか。それとも、神殿の中で商売をするというのはやっぱり変だと思われるでしょうか。
3.主イエスによる宮清めの意味(1)
イエス様はこの時、大変なことを為されました。15~16節に「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」と記されています。イエス様は随分乱暴なことをされました。両替人や鳩を売る人々にしてみれば、いきなり商売道具を滅茶苦茶にされたわけですから、営業妨害も甚だしい。今なら当然警察を呼ぶというような事態でしょう。どうしてイエス様はこんなことをされたのでしょうか。子どもにも、病人にも、貧しい人にも憐れみ深く、優しいイエス様の姿とイメージが重ならないと思われる方もおられるでしょう。この出来事は、宮清めと呼ばれてきました。この出来事は、イエス様がエルサレム神殿を清められた、神殿に相応しく清められたのだと理解されてきたのです。では、イエス様は何から清めようとされたのでしょうか。この宮清めの出来事の意味は何だったのでしょうか。
私は、二つの意味があったと思います。一つは、この商売が異邦人の庭と呼ばれる所で為されていたということです。異邦人は神殿の一番外の所までしか入れませんでした。しかもそこでは今見てきたような商売が為されておりまして、とても神様を礼拝し、祈りをささげることが出来る状態ではなかった。イエス様は、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われたのです。これは先程お読みいたしましたイザヤ書56章7節の引用です。このイザヤ書56章は、異邦人も宦官も、つまり当時救われないと考えられていた人々ですが、これらの人々も主に仕え、主を愛し、主の僕となって契約を守るならば、その者たちのささげる犠牲を神様は受け入れる、つまり神様の救いに与る、そう預言されているところです。神様が「わたしの家」と呼ばれるのは神殿のことです。ところが、その神殿において何が為されているか。異邦人は、神殿の境内に入れると言っても一番外の所まで。しかもそこは、多くの巡礼者でごった返し、とても礼拝し祈りをささげることが出来るような状態ではない。これが神様の御心に適うと思うか。イエス様はそうお語りになったのでしょう。
当時、人々は異邦人は救われないと考えていましたので、神殿の境内に入れるだけでもありがたく思え、そんな感じだったのではないでしょうか。ですから、そこで商売が為されようと、それは巡礼者へのサービスなのだから良いことだと考えていたと思います。ここには、異邦人もまた神様に造られたものとして神様の愛の御手の中にあるという思いが欠落していました。イエス様はそれを、「違う。」と言われたのです。神殿は「すべての国の人の祈りの家」でなければならないからです。
また、ここには神様の御前に額ずく畏れがありません。人々は鳩を買い、両替し、お参りすればそれで良しと思っていたのでしょう。イエス様は、そんなものではない、神様の御前に罪人として額ずく畏れがなくて何の礼拝か、そう言われたのです。イエス様は、このエルサレム神殿で為されている神礼拝の根本を問題にされたということなのだと思います。ですから、18節に「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」とありますように、このイエス様の根本的な批判をちゃんと分かった祭司長や律法学者たちは、イエス様をこのままにしておくことは出来ない、殺そうと謀ったのです。この「殺そうと謀った」というのは、暗殺をしようとしたというのではありません。そうではなくて、合法的に、誰にも責められることがないように、上手い手はないかと考えた。それが「どのように殺そうかと謀った」ということなのです。
4.主イエスによる宮清めの意味(2)
さて、もう一つの点です。それは、この宮清めの出来事が、どのような構造の中で記されているかということから考えなければなりません。マルコによる福音書は、この15~19節の宮清めの記事を、実のないいちじくが枯れる、枯らされるという二つの記事の間に挟み込むようにして記しております。このようなサンドイッチのような構造は、外側のパンと内側の具が同じ事を告げている、同じメッセージを持っている、そのことを示すために用いられる記し方なのです。
先週見ましたように、この枯れたいちじくの木の出来事は、イエス様が求める時に実を付けていなければ滅びる、そのことを出来事として示されたわけです。ということは、この宮清めの出来事もまた、実を結ばない礼拝、何もない罪人として神様の憐れみだけを求めて、ただそれを信頼してささげるのではない礼拝、まことに神様を信頼して互いに赦し合う祈りをしていない神殿は、枯れたいちじくと同じように滅びる。根元から枯れる。そのことを、イエス様はこの荒々しい行動をもってお示しになったということなのです。
旧約以来、預言者たちは人々の印象に残る行動、行為を行い、それと共に預言して、その預言を人々の心に刻ませるという伝統がありました。これを行動預言とか象徴預言と言ったりします。代表的なのは、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが陶器の壺を人々の見ている前で砕き、エルサレムもこのようになると預言した所です。
イエス様はこの宮清めという、一見突飛な荒々しい行動をもって、人々の心に残る行動と共に、エルサレム神殿に下される神様の裁きを預言されたということではないかと思うのです。そして実際、エルサレム神殿はこのイエス様の預言の後、40年ほどして、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山と化すのです。
5.自ら神の裁きを身に受けて
ところで、イエス様はこの時、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」と言われたのですが、この時イエス様は、「お前たちはすべての国の人の神の家を、神様に祈りをささげ神様との親しい交わりの中に生きる場所を、商売の場所にしてしまった。巡礼に来る神の民から富を巻き上げる場所にしてしまった。大祭司よ、祭司長よ、祭司たちよ、律法学者たちよ、両替商よ、鳩を売る者たちよ。お前たちは強盗だ。神の裁きから逃れられると思うな。」と告げられたのでしょう。しかし、問題はこの時イエス様が、どこに御自分の身を置いておられたのかということなのです。イエス様は、御自分をこのエルサレム神殿の滅び、神様の裁きと無関係な所に身を置いて、このことを告げられたのでしょうか。
私は、そうではないと思います。先程、このイエス様の行動が、旧約の預言者の行動預言の伝統にあると申しました。旧約の預言者たちは、エルサレムの滅びを告げる時、自分の身を安全な所に置いて、「エルサレムは滅びる。けれども自分は大丈夫。だが、お前たちは滅びる。」そのような思いの中で神様の裁きを語るというようなことは決してないのです。それは神様に遣わされた預言者のありようではないのです。そうではなくて、神様に遣わされた預言者たちは、神様の裁きを受ける神の民と同じ所に身を置いて、神の民と苦しみ、嘆きを共にして、そして悔い改めを求めたのです。愛する同胞の上に下される神様の裁きを、痛みと嘆きと怒りをもって告げたのです。愛をもって告げたのです。同胞たちが受ける神様の裁きを、自らもエルサレムにとどまり、その同じ苦しみを我が身に負い、神様の裁きの預言を語ったのです。それが旧約の預言であり、預言者の姿なのです。
イエス様もこの時、そうだった。イエス様は、このエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまった人々の上に下される神の裁きを自ら引き受ける、十字架につく、そのことをしっかり見据えて、この裁きの預言をお語りになったのです。イエス様は、この週の内に十字架にお架かりになるのです。このことを語られた4日後の金曜日には十字架にお架かりになるのです。イエス様は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしてしまった、その人々の罪をも一身にお引き受けになり、十字架にお架かりになるのです。それは、まことの神殿、ユダヤ人も異邦人もなく、神様を愛しその契約の中に生きようとするすべての人が、父なる神様との親しい交わりの中に生きることが出来る神殿を造られるためでありました。すべての民が神の子とされ、神様に向かって「父よ」と呼び奉り、祈りをささげることが出来るようにされるためでありました。そして事実、イエス様は十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られ、そこから聖霊を注いで、まことの神殿としての教会、神様との親しい交わりが与えられる所としての教会、すべての国の人々の祈りの家である教会、キリストの体なる教会を建ててくださったのです。私共はその恵みに与り、異邦人でありながら、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきこの教会に集い、このように主の日の礼拝を守ることが許されているのです。イエス様の十字架の故です。まことにありがたいことです。
6.強盗にならないように
私共は、この教会を強盗の巣にしてはなりません。すべての人に与えられている救いの恵みを自分たちだけのものにするならば、他の人の救いの恵みを奪い取る強盗になってしまいます。私共が強盗にならないためには、神様の救いの恵みが一人でも多くの人に伝えられ、これに与る者が増し加えられるように、祈りと力と時間と富とをささげ、このイエス様の十字架の御業にお仕えするのです。それが、まことの祈りの家に集う私共に求められている、まことの礼拝なのであります。パウロが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)と語っている通りです。私共は、このイエス様の十字架、復活、昇天によって与えられたまことの祈りの家に集う者とされている。その幸いを思い、心から御名をほめたたえるとともに、一人でも多くの者がこの恵みに与ることが出来るように、この救いの恵みへ人々を招いていきたいと願うのです。
[2015年3月8日]
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