富山鹿島町教会

礼拝説教

「遣わされた神の御子」
イザヤ書 5章1~7節
マルコによる福音書 12章1~12節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 レント(受難節)の第五の主の日を迎えております。週報に記してありますように、来週の主の日は棕櫚の主日で、受難週に入ります。受難週の守り方は教会によって様々ですが、イエス様の御受難を覚える、イエス様の十字架を心に刻むという目的は、どの教会でも同じです。私共の教会は、火・水・木・金と四日間連続で祈祷会を守ります。昼と夜とありますので、皆さんぜひ覚えて出席していただきたいと思います。

2.イザヤ書を下敷きにして
 今朝与えられております御言葉は、イエス様がたとえ話を語られたことが記されております。このたとえ話は、イエス様が話されることを期待してイエス様の周りに集まった人々に向けて為されたというものではないようです。1節に「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。」とありますが、イエス様がこのたとえ話を語られた相手である「彼ら」とは、この直前の、権威についての問答をイエス様と行った「祭司長、律法学者、長老たち」と考えて良いでしょう。12節を見ますと、「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」とあります。このイエス様のたとえ話が、自分たちに対しての当てつけだと、祭司長、律法学者、長老たちは思ったのです。そして、イエス様を捕らえようとしたのです。しかし、群衆を恐れた。ということは、少なからぬ数の人々がイエス様を支持していたということなのでしょう。このたとえ話はそれほど分かりやすい話とも思えませんが、祭司長たちは自分たちへの当てつけだと受け止めることが出来た。つまり、分かったのです。どうしてかと言いますと、このイエス様のたとえ話は、全くのオリジナルではなくて、旧約以来の伝統を前提としているからなのです。ですから、旧約聖書に明るくない私共にはいささか分かりにくいたとえ話でも、祭司長、律法学者、長老たちといった旧約聖書に生まれた時から馴染んでいる人々にすれば、分かりにくい話ではなかったということなのです。
 先程イザヤ書5章をお読みいたしました。「ぶどう畑の歌」という小見出しが付いていますが、この箇所では、神の民イスラエルが「ぶどう畑」に、神様が「ぶどう畑を作り世話する人」にそれぞれたとえられています。神様は良いぶどうを求めて、良く耕し、石を除き、見張りの塔も立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待ったのです。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうでした。神様が神の民に求めておられたものと、実際にあるものとのギャップを、7節において言葉遊びで、裁き「ミシュパト」を待っていたのに流血「ミスパハ」、正義「ツェダカ」を求めたのに叫喚「ツェアカ」と言っています。「ミシュパト」は公平とも訳せます。これは社会における不正義を表わしているのです。神様の望まれるのは公平と正義に満ちた愛なのに、それが実現していない。そのような神の民の現実を見て、神様は嘆かれているのです。神の民において公平・正義と一つとなった愛が無くなれば、それは最早神の民と呼ばれる資格もない。このぶどう畑を神様はどうされるのか。5節「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、これを見捨てる。」そう神様は告げるのです。これは神様の裁きを告げているのでしょう。神様の求める実りを付けることがなかったイスラエルを滅ぼすと神様は告げられる。そして実際、北イスラエル王国はアッシリア帝国の軍靴の前に滅んだのです。
 今朝与えられておりますイエス様のたとえ話は、イザヤ書5章のこの「ぶどう畑の歌」が下敷きになっているのです。

3.イエス様のたとえ話
 このイエス様のたとえ話は、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」と始まります。この「ある人」(ぶどう園の主人)とは、神様のことです。そして、この「ぶどう園」はイスラエルであり、この「農夫たち」はぶどう園であるイスラエルを世話している人、つまり、祭司長、律法学者、長老たちと見ることが出来ます。
 さて、収穫の時が来ました。主人は当然、ぶどう園の収穫の一部を受け取ろうとして、僕を送りました。ところが、農夫たちはこの僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰したのです。主人は、他の僕を送ったけれど、農夫たちは同じようにその僕を殴り、侮辱した。更にもう一人を送ったが、今度は殺してしまった。この僕というのは、イスラエルに送られ続けた預言者を指していると考えられます。そして、最後に殺されてしまった僕である預言者は、洗礼者ヨハネと考えられるでしょう。
 最後に主人は、自分の息子を遣わします。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」と言って送り出すのです。しかし農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そう言って息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出したというのです。何ともひどい話です。この息子がイエス様を指しているのは、言うまでもありません。息子が捕らえられて殺され、ぶどう園の外にほうり出されるというのは、イエス様の十字架を指しているのでしょう。
 このように読んでいきますと、このたとえ話は、受難週の金曜日、このたとえ話を話されてから三日後に起きるイエス様の十字架の出来事を予言している、そういう内容であることが分かります。しかも、単にこういうことが起きるという預言で終わることなく、その出来事の意味をもまた、告げているのです。

4.度外れにお人好しな主人?
 しかし、このぶどう園の主人である神様は、どうして次々に預言者を送り続けたのでしょうか。そして、どうして最後に自分の愛する独り子まで送ったのでしょうか。
 6節にあります「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」と言って息子を遣わす、これはいささか変ではないでしょうか。今までさんざん僕を遣わし、その僕たちは袋だたきにされたり、殴られたり、殺されたりしているのです。今度は自分の息子だから大丈夫。そんな風に思うでしょうか。神様はよっぽど人が良いと申しますか、疑うことを知らないお人好しというか、馬鹿じゃなかろうかとさえ思えてきます。しかし、このたとえ話において最も重要なところは、まさにこの度外れたお人好しのように見えるところなのです。何故なら、これが父なる神様の愛だからです。イエス様は、七の七十倍人を赦すようにと言われました(マタイによる福音書18章22節)が、それは誰よりも父なる神様御自身が、七の七十倍お赦しになる方だということなのです。この神様の徹底的な愛によらなければ、この度外れた愛によって赦されなければ、救われようのない罪人が私共なのです。これほど徹底して赦してくださるお方であるが故に、私共さえも赦されるのです。もし、ここで農夫たちを滅ぼしてしまわれるようなお方であるならば、つまり祭司長や律法学者や長老たちを完全に滅ぼしてしまうようなお方ならば、私共も赦されることはないでしょう。私共も救われることはないのです。しかし、この主人は私共の想像を超えた愛と赦しをもって僕たちを送り続け、自分の息子さえも送るのです。ここに神様の愛があるのです。そして、この愛の故に、私共も救われたのです。

5.ユダヤの民からキリストの教会へ
 このイエス様のたとえ話は、息子が殺される所で終わっていません。9節「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」とあります。このことは何を指しているのでしょうか。これは紀元後70年、このイエス様が十字架にお架かりになるという出来事から約40年後ということですが、この年にエルサレムはローマ軍によって陥落し、瓦礫の山となりました。この出来事を指しているのだと読む人もいます。確かに、そのような預言として読むことも出来るかもしれません。しかし私は、このイエス様の御言葉はイスラエル民族、ユダヤ民族という神の民からキリストの教会というものに、神の民が変えられる、引き継がされる。そのような預言として読めると思います。そしてその方が、10節、11節へとつながっていきやすいのです。
 10節「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」との言葉は、詩編118編22節の引用です。この「隅の親石」というのは、昔から二通りの理解がされてきました。一つは、橋やトンネルや門などに用いられるアーチ構造の一番てっぺんにある石。これを抜きますと、上からの大きな力にはびくともしない頑強なアーチ構造がいっぺんに壊れてしまいます。そしてもう一つは、いわゆるコーナー・ストーンと呼ばれる、土台の中でも一番大切な要の石。それを抜くと土台が崩れてしまうという大切な石です。どちらにも読むことが出来ます。いずれにせよ、それが無いと建物がきちんと建たない、そういう大切な石のことです。家を建てる者が「もうこんな石はいらない。」と捨てた石が、その建物になくてはならない石となったというのです。
 この「家を建てる者の捨てた石」とは、十字架の上に捨てられたイエス・キリストを指しているのでしょう。そして、そのイエス様が隅の親石となるのです。では、このイエス様が「隅の親石」となる建物とは何なのでしょうか。それは、キリストの教会のことです。新しいイスラエル、新しい神の民としてのキリストの教会ということであります。人々に捨てられ、十字架にお架かりになったイエス様が三日目に復活し、新しいイスラエルとしてのキリストの教会の「隅の親石」となるということです。
 こんなことは、全く誰も考えたことのないことでした。これは、私共の目にはまことに不思議なことでしかありません。しかし、神様はそこまで見通されて、イエス様をお遣わしになったのです。神様のなさることは、私共にはいつも不思議です。神様の御業を先読みすることは出来ません。神様は私共の思いを超えた不思議をもって、私共を救いへと、救いの完成へと導いてくださっているのです。そのことを覚え、心より御名をほめたたえたいと思います。

6.悔い改めて、イエス様の招きに応える
 ここで、祭司長、律法学者、長老たちは、イエス様が言おうとしていることの大体の所は分かりました。祭司長、律法学者、長老たちが、イエス様のこの話は自分たちに当てつけているのだと感じたのは間違いではありませんでした。そのとおりなのです。しかし、彼らは悔い改めませんでした。イエス様に何を言われようと、彼らの心は動かなかったのです。イエス様の言葉が分かっても、彼らは悔い改めなかった。それは、彼らがイエス様の言葉が本当の所では分かっていなかったからなのでしょう。イエス様の言葉分かるということは、イエス様の言葉がピンポイントで自分に告げられている言葉として聞くことが出来るということであって、ただ意味が通じたということではないのです。意味が分かるというだけならば、祭司長、律法学者、長老たちと同じなのです。それではイエス様の言葉が分かったことにはならないのです。
 どうして、彼らにはイエス様のたとえ話の意味が分かるだけで、悔い改めるということが起きなかったのでしょうか。それは、自分たちが権威であり、自分たちが正しい。そう思っていたからです。イエス様より自分の方が正しい、自分たちの方に権威があると考えているのですから、悔い改めが起きようがないのです。それは、自分の人生の本当の主人が神様であることが分かっていないということでもあったと思います。神様は自分の人生において大切ではあるけれど、主人ではない。主人は自分だ。そう思っている限り、人は、この祭司長たちと同じように、神様から遣わされた神の子を、神の僕を、袋だたきにしてしまうのです。イエス様の言葉の意味が分かっても、悔い改めも起きないし、イエス様を自分の人生の主人として受け入れるということも起きないのです。
 神様が私共に求めておられる実とは、神様を父と崇め、御心に従って、神様・イエス様との親しい交わりの中に生きることです。ここに生きる者となるためには、どうしても悔い改めなければなりません。自らの罪を認め、言い訳なしに神様に赦しを求め、神様に従って歩む者となるという出来事がなければなりません。神様を自分の人生の主人として受け入れるしかないのです。しかし、この神様との生ける交わりが分からず、ただ形の上でクリスチャンらしく振る舞う、クリスチャンを演じるということが起き得るのです。それはまことに虚しい信仰です。いや、とても信仰とは言えないでしょう。

7.神様との交わりに生きる者として
 良いですか皆さん。神様は、愛する独り子が十字架に架けられることを承知の上で、イエス様をお遣わしになったのです。神様は、神の民を、祭司長、律法学者、長老たちを信頼したかったのではないでしょうか。我が子を送れば悔い改めるのではないか。悔い改めて欲しい。そう願われたのではないでしょうか。しかし、そうはなりませんでした。そして、イエス様は十字架に架けられました。私共は、そのイエス様の十字架によって一切の罪を赦していただき、神様の子としていただきました。それは、神様は全き罪の中に生きている私共をも愛し、信頼したいということなのです。御自身との愛の交わりの中に、私共を招きたいのです。そのために、神様は愛する独り子さえも与えてくださったのです。神様はその目的を達成するために、私共にイエス様の十字架による罪の赦しを与え、聖霊を与え、信仰を与え、教会を建て、聖書を与え、主の日の礼拝を備え、聖礼典を備えてくださいました。私共がそのすべてを用いて、神様との親しい交わりの中に生きる者となること、その交わりの中にあり続けることこそ、父なる神様が私共に求めておられることなのです。この求めに応えて、私共のただ一人の人生の主人として、私共は神様をお迎えするのです。これこそが、何よりも神様が私共に求めておられる良きブドウの実だからです。

[2015年3月22日]

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