1.神様の御心による十字架の苦しみ
イエス様は、十字架の苦しみをお受けになりました。それは文字通りの死に至る苦しみでした。しかも、まことの神の御子でありながら、人々に罵られ、辱められるというものでした。この十字架に架けられたお方を、私共は我が主、我が神と信じ、今朝も礼拝しています。この主の十字架こそ私共の救いの根拠であり、神様の愛と真実が現れたものだからです。
今朝与えられております御言葉において、イエス様が十字架に架けられた時兵士たちはイエス様の服をくじ引きにして分け合い、イエス様の十字架を見た人々はイエス様を罵り、辱めて、こう言ったと記されています。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」このように、イエス様は十字架に架けられても尚、罵られ、辱められたのです。何ということかと思います。
しかし、先ほどお読みいたしました詩編22編には、既にこの情景が預言されていました。22編8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」そして、18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とあります。これは明らかに今朝与えられているイエス様の十字架の場面と重なります。この詩編の言葉は、イエス様が十字架の上で人々に罵られ、辱められたこと。そしてイエス様の服が兵士たちによってくじ引きされて分けられたという、今朝与えられております御言葉が告げるイエス様の十字架の場面と全く重なるわけです。このことは、イエス様の十字架の出来事が、神様の永遠の御計画の中にあったことを意味しているのでしょう。イエス様が十字架の上で、人々に罵られ辱められることを、神様は御存知であったということです。そして、それはイエス様も承知の上であったということでしょう。では、何故イエス様はこれほどまで人々に辱められ、罵られなければならなかったのでしょうか。ここには、イエス様の十字架の意味が、隠されているのです。
2.十字架での苦しみの意味
イエス様の十字架でのお苦しみの意味、それは、どんな状況の中に生きる人に対しても、「わたしはあなたを知っている。あなたの苦しみも困難も知っている。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない。あなたの苦しみ、嘆きをわたしは共に負っている。だから大丈夫。」そのようにイエス様は語りかけ、苦しみのただ中にある者と共に歩む神であられるからなのです。それ故、イエス様は十字架の上で、肉体的にも精神的にも、人間が味わう極限の苦しみを味わわれたのです。
私共は肉体的な痛みに弱いです。虫歯が出来ただけでも、情けないほどに弱ってしまいます。しかし、イエス様がここで受けている肉体の痛みは、死ぬまで続く痛みです。死に至る痛みなのです。手と足に釘を刺され、十字架に磔にされる。傷口から血が流れ出て、出血多量のショック死に至る。午前9時に十字架に架けられてから午後の3時に息を引き取るまで続く痛みです。23節には「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。」とあります。「没薬を混ぜたぶどう酒」というのは、痛みを柔らげるための麻酔薬と思って良いです。イエス様は、それを受けることを拒まれたのです。それは、十字架での痛み、死にいたる苦しみを味わい尽くすためでした。また、私共は人から辱めを受けることがあれば、もう生きていけないと思うほどに心が萎えてしまいます。或いは、人に罵られれば、一生忘れることが出来ない悔しさを心に秘めることにもなるでしょう。イエス様はここで、私共が味わう肉体的痛み、心の痛み、そのすべてを極限まで味わい尽くされたのです。ヘブライ人への手紙4章15節「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と告げている通りです。私共の痛みも嘆きも、イエス様は御存知なのです。そして、私共の痛みも嘆きも、御自分のものとしてくださるのです。そのことによって、イエス様は私共の痛みと嘆きの向こうにある明日、更に死の向こうに、復活の命へと私共の目を向けさせ、私共をそこへと招いてくださるのです。
3.罪人と共に十字架に
イエス様は一人で十字架の上で死なれたのではありません。イエス様の右と左には、同じように十字架に架けられた者がおりました。彼らは強盗であったと聖書は記します。十字架に架けられて処刑されても仕方のない犯罪者でした。イエス様はその強盗と一緒に十字架に架けられたのです。それはまさに、死に至るまで罪人と共に歩まれる、神の御子の姿であります。イエス様は、天地が造られる前から、天地を造られた唯一人の父なる神と共に天におられました。しかし、そこから降って来て、馬小屋に生まれ、罪人と共に食事をし、病人を癒やし、そして最後は犯罪人と一緒に処刑されたのです。どこまでも罪人と共に歩まれる神の御子、どこまでも低きに降る神の御子の姿がここにあります。
私共の中には、少しでも人より上に行こうとする思いがあります。しかし、イエス様はどこまでも低きに降ろうとされます。その極みが十字架だったのです。それは、どこまでも弱い者、小さい者、罪の中にある者と共にあり、誰一人としてお見捨てにならないお方だからです。だから、私共はこの方を信じて良いのです。
自分にとって得になる人には良くしてやる、それが私共にとっては普通でしょう。しかし、それは愛ではありません。イエス様によって示された愛ではないのです。イエス様は、この十字架において、まことの愛とはどういうものであるかを示してくださったのです。
このイエス様が十字架に架けられた時の様子、右と左に架けられた犯罪人とのやり取りが、このマルコによる福音書とは少し違う形で、ルカによる福音書23章32節以下に記されております。ルカによる福音書によれば、イエス様は御自分を十字架に架けた人々、御自分を罵り辱めた人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ったと記されています。このような言葉を人類は聞いたことがありませんでした。ここにイエス様の愛、神様の愛が顕れています。そして、一緒に十字架に架けられた犯罪人の一人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言うと、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」とイエス様は言われたのです。もう数時間で死ぬのです。これから心を入れ替えて良い事をしましょうということではないのです。そんな暇はないです。イエス様は、この死ぬ直前に御自身を頼られた者を見捨てず、楽園に伴う、わたしが救うと約束してくださったのです。イエス様は誰も決してお見捨てにならないのです。自分に敵対し、十字架に架けた人たちさえも、十字架に架けられて処刑されるような犯罪人もです。だから、私共は信じて良い。安心して良いのです。私共は誰一人、イエス様に見捨てられることはないのです。
4.サタンの試みに打ち勝って
イエス様が受けた罵りは、「十字架から降りて自分を救ってみろ。」「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」というものでした。もし、イエス様がこの時十字架から降りたなら、私共を救うために来られ為された歩みが、すべて無駄になってしまいます。それだけではありません、天地創造以来の神様の永遠の御計画が無に帰してしまうのです。そして、誰一人救われる者がいなくなってしまうわけです。もしこの時イエス様が十字架から降りたなら、その瞬間に、世界は滅び、消滅してしまったのではないか。私はそう思います。ですから、イエス様は十字架からお降りになりませんでした。しかし、この時ほど、イエス様とサタンとが激しく戦われた時はなかったのではないかと思います。このイエス様を罵る人々の背後にはサタンが働いている、そう言って良いでしょう。サタンは、神様の救いの御計画、イエス様の十字架によって成就する救いの御業を失敗させるために、最後の最も激しい誘惑、霊的戦いをイエス様に仕掛けていたのだと思います。もし、イエス様がこの辱めに耐えかねて、「我こそはメシア、神の独り子、イスラエルの王である。」と言って十字架から降りてしまえば、サタンの勝利でありました。しかし、イエス様はこの最大の誘惑を退けられ、十字架の上で痛みと苦しみを味わい尽くされたのです。あの荒野でのサタンの試みを退けられたのと同じようにです。
それは私共の救いのためでした。それは私共への愛の故でした。このイエス様が、私共と共にいてくださるのです。私共のために、私共に代わって戦ってくださるのです。私共は、この時イエス様を罵り嘲った者と同じように、サタンの誘惑とも知らずに神様の御計画に敵対することがあるかもしれません。この時、神様がその力を自分たちのこの世での成功や利益のために用いてくれるなら大歓迎するけれども、自分たちの目の前の幸いのために働いてくれないのなら用はないとばかりに、人々がイエス様を嘲り、罵ったようにです。しかし、神様は私共の成功や利益のためにおられるのではありません。神様が私共を造り、神様の救いの御計画の中に私共を生かしてくださっているのです。愛の交わりを形作る者として私共を創造し、導いてくださっているのです。それを思い違いして、自分のための神を求める。それはサタンの誘惑にはまってしまっているからでしょう。
しかし、もしも私共がそのようなサタンの誘惑に陥ったとしても、イエス様は私共をサタンの手から奪い返し、御自分のものとしてくださるために、神様との愛の交わりの中に生きる者としてくださるために、その全能の御力を用いてくださいます。そして、私共を父・子・聖霊なる神様をほめたたえる者へと変えていってくださるのです。私共をサタンの手から奪い返し、御自分のものとしてくださる。私共はそのことを信じて良いのです。イエス様はサタンの誘惑に負けることはありませんし、私共を愛して、私共を手放すこともありません。私共をサタンの元に置かれたままにされることは決してないのです。私共のために十字架の苦しみさえも耐え忍んでくださった方だからです。それほどまでして私共を救おうとしてくださった方が、私共を滅びるままにされるはずがないのです。
5.イエス様の十字架の前で
聖霊なる神様は、私共にイエス様の十字架の御姿をはっきりとお示しになり、その愛の確かさ、救いの決意を教えてくださいます。この十字架の前で、私共は目覚めさせていただくのです。自分の罪、自分の傲慢、自分の愚かさ、自分の怠惰、自分の思い違い、それをはっきりと知らされ、神様の御前に悔い改めるのです。イエス様のもとに、神様のもとに立ち帰るというのは、この悔い改めを必要とします。この悔い改めは、このイエス様の十字架のもとで、十字架のイエス様との出会いの中で起きることなのです。イエス様は御自分を救わず、私共を救ってくだっさった。十字架から降りず、すべての痛みを味わい尽くされた。私のためにです。そのことを知ったとき、私共は正直になれる。素直になれる。神様の御前に自らの罪を認め、お赦しください、憐れんでください。そのように祈ることが出来るのです。
私共にとって、体の痛みは本当に辛いものです。しかし、その痛みの中でこそ、十字架のイエス様が共におられるのです。そして、私共に語りかけてくださる。「わたしはあなたの痛みを知っている。あなたはひとりではない。ほら、わたしが共にいる。わたしはあなたをひとりにしない。」
また、人に罵られ、辱められ、心が萎え、生きる気力も失いかけた時、頭に血が上り、怒りに支配されそうになった時、十字架のイエス様が私共に語られるのです。「わたしはあなたの怒りを、嘆きを、悲しみを、苦しみを、知っている。わたしも十字架の上でひとりだった。皆がわたしを罵り、嘲った。弟子たちも皆、わたしを捨てて逃げた。だから、わたしは知っている。だから、怒りに身を任せてはいけない。悲しみに支配されてはいけない。わたしが共にいる。わたしはあなたのために明日を備えている。それは十字架の死の後の、復活のような明日だ。この悲しみの中でこそ、嘆きの中でこそ、あなたは十字架のわたしと一つになっている。だから、大丈夫。わたしは主。あなたをサタンの手から取り戻すために十字架に架かった者。」この御声を私共が聞くなら、私共は立ち直ることが出来るのです。
6.私の王
イエス様の十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれておりました。これは、イエス様がユダヤ人の王と称した、ユダヤを支配しているローマに反逆した者という意味で付けられたものでした。しかし、そこにはただ「ユダヤ人の王」とだけ書かれていたのです。「ユダヤ人の王と称した者」とか「ユダヤ人の王としてローマに反逆した者」とは書かれていなかった。ただ「ユダヤ人の王」です。ユダヤ人の王。神の民であるユダヤの本当の王は、神様しかおられません。これは旧約以来の、神の民の基本的な理解です。この罪状書きは図らずも、イエス様がまことの神であられることを示す表札の役割を果たすことになってしまったのです。まことの神であられるユダヤ人の王は、この十字架に架けられたイエス様である。そのことを示すことになったのです。その意味では、この十字架がユダヤ人の王、まことの神としてのイエス様の即位式となったのです。
私共はこのまことの王であるイエス様のもの、イエス様に属する者とされたのです。クリスチャン、キリスト者とは、キリストのものとされた者ということです。わたしどもは、この十字架にお架かりになったイエス様のものなのです。イエス様の御支配のもとに生かされており、イエス様の復活の命に与る者とされているのです。ですから、私共は最早、自分のために生きるのではないのです。私共の人生は、ただ一人の主であり王であるイエス様のものだからです。この方と共に、この方のために生きる。そこに私共の喜び、希望、誇りがあるのです。
只今から聖餐に与ります。イエス様の体と血とに与るのです。イエス様がどんな時でも私共と共にいてくださり、私共と一つになってくださっていることを、私共がこの目で見、手で触れ、この口で味わうのです。イエス様が私共の中に入ってきてくださり、一つとなってくださるのです。ですから、イエス様が私共と共に、私共のために、私共に代わってサタンと戦ってくださり、勝利してくださいますし、どんな試練の中を歩む時も私共と共にあって慰め、励まし、希望を与えてくださるのです。まことにありがたいことです。この恵みに感謝し、共々に主をほめたたえましょう。
[2015年10月4日]
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