1.エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ
イエス様は朝の九時に十字架に架けられ、午後三時に息を引き取られました。その間、昼の十二時から午後の三時まで全地は暗くなった、と聖書は記します。それは、まことの神でありまことの光であるイエス様が死ぬということは、この世界に光が無くなるということを示しているのでしょう。そしてまた、神の独り子が死ぬことを、父なる神様がどれほど御心を痛め、嘆かれたかということをも示しているのではないかと思います。
この時、イエス様は十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と大声で叫ばれました。これはイエス様がいつも話されていたアラム語です。ですから、マルコはイエス様が十字架の上で叫ばれた言葉をそのまま記憶するようにと、書き記したのでありましょう。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」ということです。どうしてイエス様はこの言葉を叫ばれたのでしょうか。そして、どうしてマルコは、キリストの教会は、この言葉を決して忘れてはならない言葉として記憶しようとしたのでしょうか。
なぜイエス様が十字架の上でこの言葉を大声で叫ばれたのか、本当の所は分かりません。ただ、イエス様は御自分が十字架に架けられて死ぬ、そのことに対して神様を恨んでこのように叫ばれたのではない。そんなことでは決してない。そのことは皆さんも分かると思います。もしそうであるならば、イエス様は神様の子でも救い主でもないということが、この十字架の上で、イエス様が死ぬ時に明らかになったということになってしまいます。そして、もしそうであるとするならば、キリストの教会が十字架をその信仰のシンボルとしていることも、全く意味の無いことになってしまいます。そのような理解は、イエス様を神の子、救い主として信じようとしない人の受け止め方です。教会はそのように考えたことは一度もありませんし、もしそうであるならば、マルコはこの言葉をイエス様の肉声として、決して忘れてはならない言葉としてこのように聖書に書き残したりはしなかったでしょう。マルコがこのように書き残したのは、このイエス様の言葉の中に最も明確に、イエス様とは誰であり、イエス様の十字架とは何であるかということが示されている。そう信じていたからに違いないのです。だったら、それは何かということです。
2.詩編22編の成就
先ほど、詩編22編をお読みいたしました。その冒頭には「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」とあります。これは明らかに、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉と同じです。この詩編22編は前回見ましたように、イエス様が十字架の上で人々に嘲笑われること、くじ引きで服を分けられることなど、イエス様の十字架の出来事を指し示している、預言している、そういう詩編です。そして、イエス様が十字架の上で叫ばれたのがこの詩編の最初の一句であったということは、イエス様の十字架はこの詩編22編の成就であった。そのことを明確に示しているということでありましょう。
そして、この詩編22編は、終わりの28節以下の所では、実に終末的な、神様の絶対的御支配を高らかに歌っているのです。もう一度読んでみましょう。28節「地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。」とあります。つまり、地上のすべての民が主を認め、主の御許に立ち帰り、主の御前にひれ伏すというのです。これはまさに終末において成就される救いの完成の預言でしょう。更に29節では「王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。」とあります。これもまた、主の御前にすべての国々、すべての民がひれ伏すと告げています。そして30~31節では「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」とあります。主の救いの御業が、これから次の世代に、更に子々孫々まで伝えられて行くと告げられているのです。これは実に、イエス様の十字架の結果もたらされる神様の救いの御業の完成、終末において顕れる決定的な神様の御支配です。つまり、詩編22編の成就としてイエス様の十字架を受け止めたということは、そのような神様の救いの御業の成就としてイエス様の十字架があったと受け止めてきたということなのです。この詩編22編との関係を無視して、このイエス様の叫びを理解することは出来ないと思います。
3.悲痛な叫びとしての祈り
しかし、それを弁えた上で、だったらイエス様は詩編の22編を十字架の上で祈っていたのだということになるのか。私は、それではまだこのイエス様の叫びを理解するのに十分ではないと思います。この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」という叫びは、まさに悲痛な叫びです。もちろん、この悲痛な叫びこそが祈りなのだとも言えるでしょう。私もそう思います。確かにこの叫びは祈りそのものです。しかし、その祈りは、詩編22編の祈りを祈っているというのとは少し違うだろうと思います。イエス様は、本当にこの時、神様に見捨てられたのです。天地が造られる前から父なる神と一つであられた神の御子が、父なる神に捨てられた。罪の裁きとしての死を迎えるとはそういうことです。その絶望的嘆きから絞り出されてきたような悲痛な叫びが、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」なのでしょう。
神様を知らない人は、「神様に見捨てられても大したことではない。自分の力で道を拓いていけば良い。」ぐらいにしか考えないのかもしれません。まことに傲慢なものです。しかし、この世界も私共の命も、すべては神様の御手の中にあるのであって、神様に見捨てられるということは、滅びるしかないのです。命も愛も希望も喜びも楽しみも、何も無いのです。イエス様は永遠の昔から神様と一つであられました。父なる神様と全き愛の交わりの中におられた方でした。ですから、この神様に見捨てられるということが絶望以外の何物でもないことを知っていました。一切の光が閉ざされた深い闇に落ちていくことであることを本当に知っておられました。その絶望の淵からの叫びが、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」だったのです。
私は、このイエス様が父なる神様に捨てられる痛み、嘆き、苦しみと同じものを、この時父なる神様もまた味わわれたのだと思います。子を捨てる父の嘆き、苦しみです。父なる神様と子なるキリストは、この十字架の死においても、その痛みと嘆きと苦しみにおいて一つであられた。そう思うのです。永遠に一つであられる父なる神と子なるキリストは、捨てる、捨てられるという立場を超えて、その心においては完全に一つであられた。そう思うのです。だから、全地は暗くなったのです。
4.愛ゆえに
しかし問題は、なぜイエス様は、また父なる神様は、そのような痛みを、嘆きを、苦しみを味わわれなければならなかったのかということです。答えは、愛です。私共への愛です。イエス様は十字架の上で、私共のために、私共に代わって神様に捨てられたということなのです。父なる神様は、罪に満ちた私共を見捨てることがないようにと、私共に代わってイエス様をお見捨てになったのです。イエス様は、私共が神様から最早決して見捨てられることがないように、私共に代わって捨てられたということなのです。イエス様は、私共に代わって神様に見捨てられ、私共に代わって十字架の上で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」だから私共はもう、神様に見捨てられることはないのです。すべての人の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びを、イエス様はこの十字架の上でお引き受けになったのです。私共が、最早「私は神様に見捨てられた。」と叫ばなくて良いようにです。
私共は、「神も仏もあるものか。」と言いたくなるような現実があることを知っています。毎日のようにテロがあり、多くの人が命を失っている。被害者の家族の嘆きは如何ばかりかと思う。突然の事故、災害、争い、病気等々、思いも掛けなかった嘆きが私共を襲う。そのような中で、代々の教会はイエス様の十字架を見上げ、そしてこのイエス様の言葉を聞いてきた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「あなたの痛みを、嘆きを、苦しみを、わたしは知っている。大丈夫。わたしがあなたに代わって神様に捨てられたから、あなたは決して父なる神様に見捨てられることはない。わたしは主。わたしが三日目に復活したように、あなたも、あなたの愛する者も、この肉体の死によって滅びはしない。父なる神様はあなたを決して見捨てない。だから、生きよ。御国に向かって生きよ。」そう告げられるイエス様の言葉を聞いてきたのです。
5.インマヌエルの神
イエス様が息を引き取られると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた、と聖書は告げます。この神殿の垂れ幕とは、神殿の一番奥、至聖所と呼ばれる、年に一度、大祭司だけが入ることを許されていた場所を仕切る幕です。この至聖所は、神様が御臨在される所と理解されていました。その仕切りの幕が上から下まで真っ二つに裂けたということは、神様と人間を隔てていた幕が裂けたということです。神様と人間との交わりを隔てていた罪が取り除かれたということです。イエス様の十字架の死によって、神様と私共の交わりが回復された。インマヌエル、神我らと共にいます、という救いの現実が、私共に与えられたということなのです。
私共は、自分の罪の赦しを求めて、神殿で牛や羊の犠牲を献げることはありません。それは、神の独り子であるイエス様が、私共の罪を贖う完全な犠牲となって、十字架の上で我が身を献げてくださったからです。この犠牲によって、私共は父なる神様との永遠の交わりを与えられることになったのです。
この救いの現実に与るためには、ただ信仰だけが求められます。信仰がなければ、イエス様が自分のために、自分に代わって十字架にお架かりになったことが分からないのですから、当たり前のことです。信仰がなければ、イエス様の十字架は単に、当時のユダヤ教の中でねたみを受けて、不思議な業をすることが出来た人が殺された。それだけのことです。しかし、そんなことは歴史の中で何度も起きたことの一つに過ぎません。イエス様の十字架をそれだけのこととして受け取るならば、イエス様が御自分の命を捨ててまで与えてくださった神様との交わりに与ることは出来ません。ただ信仰です。これだけが求められるのです。
6.十字架をそばで見上げる者
このイエス様の十字架を、始めから終わりまでずっと見ていた人がいました。イエス様に十字架刑を執行したローマ兵です。39節「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」とあります。彼はローマ人ですから、異邦人でした。旧約聖書も知らなかったでしょう。しかし、彼は職務として、イエス様の十字架をずっと見ていました。或いは彼は、イエス様がピラトの官邸でローマ兵たちによって茨の冠をかぶせられ、葦の棒でたたかれ、嘲弄された時も、その場にいたかもしれません。そこから、イエス様が十字架を担がされて歩み、ゴルゴタで十字架に架けられて息を引き取るまで、彼はずっとイエス様とともにいました。その彼の口から、「本当に、この人は神の子だった。」との告白が生まれたのです。彼は仕事柄、今まで何人もの人を十字架に架けてきたことでしょう。しかし、それらの人たちとイエス様は全く違っていたのです。何をされても黙っている。それも、悔しそうに唇をかみしめるようにしているのではない。自分をあざける人々を恨むでもない。何かが違う。決定的に違う。彼は、イエス様が他の人とは違うあり方でこの苦しみを受け止めていることを次第に感じ始めていたのではないかと思うのです。そして、イエス様の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」という最後の言葉を聞いて、イエス様がただ神様の御前にこの苦しみを受け止めていたことを知ったのだと思います。神様の御業として、この苦しみを受け止めていたことを知った。このとき彼は、イエス様が自分のために十字架にお架かりになったということまでは理解していなかったでしょう。しかし、自分が見てきた多くの罪人たちの十字架と全く違うことは分かった。そして、「本当に、この人は神の子だった。」との告白に至ったのです。
代々のキリスト者たちは、この百人隊長の告白に自分の告白を重ねてきました。イエス様の十字架の許に立ち、これをしっかり見上げるならば、そこから目をそらさないのならば、私共はこの告白に至るのです。私共は、苦しみの中で、「神様なんてどうでもいい。」と思ったりする。しかし、イエス様は十字架の苦しみのただ中でも、「わが神、わが神。」と叫ばれたのです。神様の御前にあり続けた。「わが神」と叫んだのです。この神様との絶対的な結び付き。自分が見捨てられてもなお「わが神」と呼ぶお方。それは、まことに神の子しかおられない。異邦人の百人隊長はそう思ったのでしょう。だから「本当に、この人は神の子だった。」との告白に至ったのです。
聖書は、この百人隊長が「イエスの方を向いて、そばに立っていた。」と記します。十字架のイエス様の方を向いて、そばに立っていたのです。遠くから眺めていたのでもないし、イエス様の十字架に対してそっぽを向いていたのでもない。しっかり十字架のイエス様の方を向いて、そばに立っていた。私共に信仰が与えられるためには、どうしてもこのことが必要なのでしょう。この主の日の礼拝に集うとは、私共が十字架のイエス様の方を向いて、その御前に立つということです。キリスト教についての本を読んでも、キリスト教の文化に触れたとしても、この十字架のイエス様を見上げて、この方の前に立たなければ、信仰は与えられないのです。イエス様が誰かということは分からないのです。逆に言えば、十字架のイエス様を見上げて、この方の御前にちゃんと立つならば、誰にでも信仰が与えられるということなのです。この百人隊長にしてもイエス様をあざけっていたのです。しかし、「本当に、この人は神の子だった。」という告白に至った。
私共もそうなのです。イエス様の十字架から目をそらさないで、御前に立ち、十字架のイエス様が自分に語られる言葉を聞くのです。そうすれば、今までどんな歩みをしてきたか、そんなことは一切関係なく、この方が誰であるのかを知るようになるのです。だから、キリストの教会は十字架を掲げているのです。遠くからではなくて、近くで、イエス様の十字架のもとに立ち続けるのです。ここに私共の立つべき所があるのです。
[2015年10月18日]
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