1.はじめに
今朝、私共はローマの信徒への手紙第8章からの御言葉を与えられています。このローマの信徒への手紙は、三部構成になっています。第一部は1章から8章まで。ここでは、信仰によって救われるという、パウロが最も重要であると考えていた救いの筋道、教理と言うべきものが記されています。第二部は9章から11章で、ユダヤ人問題、ユダヤ人の救いはどうなるかということが記され、最後の12章〜16章では、キリスト者の生活、キリスト者の倫理について記されています。ですから、今朝与えられている8章というのは第一部の最後に当たるわけです。しかも、8章の最後の所ですから、まさに1章から告げてきた、信仰によって救われるという救いの筋道の結論、信仰によって救われた私共はどういう者にされているのか、それが記されているわけです。私共は「信仰によって救われる」「信仰義認」ということについては、耳にたこができるほど聞いていることでしょう。これは、キリスト教教理の中心にあるものです。しかし、この教理は、単に私共が救いに与る救いの道筋を示して終わり、そんなものではないのです。この救いの筋道によって救われることにより、私共の生きる意味・目的・力・希望といったものが全く変わってしまった、新しくされてしまったのです。今日与えられている御言葉は、私共が信仰によって救われたということは、どのような世界に生きることになったか、そのことを告げているのです。
2.三つの反語
パウロはこう告げます。31節b「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」これは反語です。「だれがわたしたちに敵対できますか。」の後に「敵対出来る者などいるはずがありません。」という言葉が隠されているわけです。「神様がわたしたちの味方。誰もわたしたちに敵対することなど出来ない。」これは本当にすごい言葉です。パウロはこのことを確信しています。そうだったら良いのにな、と言っているのではありません。確信しているのです。信仰による確信です。パウロは、更に33節で「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」と告げます。これも反語です。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。誰もいません。」と告げています。そして、35節で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」と告げます。これも「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。誰も出来ない。」という意味です。
パウロはここで、「神様がわたしたちの味方です。だから、誰もわたしたちに敵対することなど出来ない。」「わたしたちは神様に選ばれた。だから、誰もわたしたちを訴えることは出来ない。」「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。誰も出来ない。」と告げます。これが信仰によって義とされた、信仰によって救われた私共が置かれている、神様との親しい交わりに生かされる者に与えられている恵みの現実、恩寵の現実なのです。私共は、このような恵みの現実の中に生かされるのです。これが信仰によって義とされた、信仰によって救われた私共に与えられている恵みの現実なのです。信仰によって義とされるということは、このような神様の恵みの現実の中に生かされているということなのです。信仰によって義とされるということは、ただの理屈ではないのです。ここで、順に一つずつ見てまいりましょう。
3.神様が味方です
「神様がわたしたちの味方である。」これが本当に分かるならば、私共に怖いことは何もありません。天地と地のすべてを造り、すべてを支配されている全能の神様が私の味方である。本当に素晴らしいことです。勿論、神様が味方なのだから、何でも自分が願う事はかなえられるとか、自分を苦しめる敵は存在しないとか、そういうことではありません。実際、キリスト者も大変な目に遭います。苦しい目にも遭います。何の問題もなく人生を歩んでいるキリスト者などいません。しかし、不思議に守られるのです。そして、最後には永遠の救いへと招かれるのです。神様によって信仰を与えられ、神様を愛し、信頼し、従う者とされた私共は、自分の力ですべての道を開き、自分ですべての問題を解決し、自分で心の平安を獲得していくという世界ではなく、自分の味方となってくださった神様の御支配の中に生きる者とされたのです。神様がおられるのです。その神様は、私共を愛し、私共を救うために、全能の御力を用いて今も働いておられるのです。この方の御計画の中で、この方の御手の中で生かされているのが私共なのです。
どうしてそんなことが言えるのか。根拠はただ一つ。父なる神様は、私共のために愛する独り子を与えてくださったということです。32節「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ということです。神様は、天地をお造りになる前から共におられた愛する独り子、イエス・キリストを人間として地上にお送りになり、私共を救うために十字架に架けてくださった。最も大切な、最も愛する独り子さえも惜しまずに与えられた神様が、私共のために、何を惜しまれるでしょう。神様の持つ、良きものすべてを私共に与えてくださらないはずがないではないですか。良きものすべてです。信仰・希望・愛・喜び・平和・自由・永遠の命・生きる力・勇気・祝福等々、神様はその全能の力をもって、私共にそれらすべてを与えてくださるのです。そのことを信じて良いのです。これは、主イエス・キリストの十字架の救いの御業によって与えられた、それまで全く私共が知らなかった世界です。
しかし、私共が味わっている日々の生活は、そのような良きものにだけ囲まれているかと言えば、そうではありません。私共を取り巻く日々の生活は、争い・憎しみ・悲しみ・束縛・悪口・病気・そして死に脅かされているわけです。ニュースを聞くのが辛くなるほどに、毎日のように無差別テロが世界中で起きています。国と国が、民族と民族が、そして考え方の違う者同士が争い、憎しみを爆発させ、時には相手を殺すということまで毎日のように起きている。そんな、ニュースになるようなことではなくても、私共の家庭の中でさえ、人には言えないような悲しい問題を抱えている。神様何とかしてくださいと祈らざるを得ない現実があるわけです。
パウロはその様な現実を知らなかったのでしょうか。そうではありません。彼自身、イエス様の福音を告げれば告げるほど、窮地に追い込まれる、命を奪われそうになるという経験を何度も味わう。そういう伝道者としての歩みをしていたのです。使徒言行録を見れば分かりますように、パウロがある町で伝道すると迫害され、その町を逃げるようにして次の町に行って伝道する。そうすると、その町でもやはり迫害されて次の町に行く。彼の行くところ行くところで、困難と迫害とが待ち受けていた。にも拘わらず、彼は「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と確信をもって言うのです。パウロは「誰が敵対出来ますか。誰も出来ない。」と言いますが、パウロの周りは敵対する者ばかり。敵対する者にいつも囲まれていたのです。でも、「誰が敵対出来ますか。」と確信をもって言うのです。それは、たとえ敵対する者たちに囲まれていたとしても、彼らは結局の所、私には何も出来ない。神様が私に与えてくださった罪の赦し、赦された者の喜び、神様と結ばれた私の命・永遠の命・復活の命、神様との永遠の愛の交わり、これを奪うことは誰にも出来ないからです。何故なら、これは天地を造られたただ一人の神様が、愛する独り子の十字架によって私共に与えられたものだからです。
4.イエス様の執り成し
二つ目。33〜34節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」とあります。ここでパウロが見ているのは、誰もがやがて立たなければならない、神様の御前における裁きの座です。私共は罪人でありますから、私共の生涯を通して犯した罪を告発されるならば、誰も言い逃れは出来ない。全員が死刑の判決を受けざるを得ない者なのでしょう。神様のこの永遠の裁きは、永遠の滅びか永遠の死しかありません。滅びか救いかしかないのです。日本人の感覚としては、その中間はないのですかと言いたくなるかもしれませんが、ありません。どちらかしかないとすれば、私共は皆、有罪しかない。
私は牧師をして30年になりますけれど、「あの時どうしてこう言えなかったのだろう。」、或いは「どうしてあんな風に言ってしまったんだろう。」とか、「あの時、あの人にこうしてあげれば良かったのに。」とか、思い起こせば色々あるわけです。これは、自分で気付いていることですから、気付いていないことは、その何倍何十倍とあるでしょう。そんなつもり、そんな思いではなかったのにということも多々あるわけです。もっと言えば、私共は一番近い人、夫婦とか親子とか家族、そういう人に対して最も多くの罪を犯しているのではないかと思います。その理由は簡単です。たくさんの時間を一緒に過ごしているからです。そこには甘えもあるでしょうし、他所では決して言わないようなことを言ったり、他所では決してしないようなことをしたりするわけです。
サタンがその一つ一つを神様の前に訴えとしたらどうなるのか。絶対に有罪になるしかありません。ところがパウロは、絶対に有罪にならないと言うのです。何故なら、審判者である神様御自身が私共を選び、信仰を与え、救いに与らせ、神の子として認め、義と認めてくださったのです。この裁判の審判者は神様御自身なのですから、どんなに激しく訴えられても、私共の罪状が事細かに述べられ、その一つ一つが本当であったとしても、私共が罪に定められることはないのです。審判者は父なる神様だからです。そして何よりも、この審判の時に、主イエス・キリスト御自身が私共の弁護者として神様の右に立ってくださっているのです。イエス様が、この審判の時、こう言ってくださる。「この者を訴える者たちの言うことは、すべて本当です。この者は、本当にひどいことをしてきました。わたしもそのすべてを知っています。この者は明らかに有罪です。永遠の滅びしかありません。しかし、父なる神様。わたしはこの者の為に、この者に代わって、既に十字架の裁きを受けました。ですから、もうこの者の裁きは済んでいるではありませんか。義と認めてあげてください。」そのように神様に言ってくださるのです。「わたしたちのために執り成してくださる」とは、そういうことです。この時、父なる神様が「イエス、お前のあの十字架は無かったことにする。」などと言われるはずがありません。ですから、私共の判決はもう決まっているのです。無罪です。誰が何と言おうと、それでもキリスト者か、それでも牧師かと言われようと、私共の神様の御前における審判は決まっているのです。無罪です。私共は永遠の救い、永遠の命、復活の命に与ることになっているのです。これを反故に出来る者などおりません。
5.神の愛・キリストの愛
三つ目です。 35節「 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」とパウロは言います。ここでも、「誰も、キリストの愛から私共を引き離すことは出来ません。」という言葉が隠れています。神様に愛されている、赦されている。この恩寵の出来事は、私共の中に神様への愛を生じさせます。キリスト教の信仰は、生ける神様と私共との愛の交わりです。愛は一方通行ではありません。神様の愛が私共に注がれ、私共の中に神様への愛が生れるのです。ここに愛の交わりとしての信仰が生れます。そして、この交わりの中で、この交わりを何よりも大切なものとして生きる。それがキリスト者なのです。
パウロはここで具体的に、私共をキリストの愛、神の愛から引き離しそうなものを列挙します。35節b「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」ここに記されているものは、すべてパウロが実際に伝道の歩みの中で経験したものです。使徒言行録を読めば分かります。また、コリントの信徒への手紙二11章23節c〜27節には、パウロが伝道旅行中に味わった苦労や困難のリストが記されています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」とあります。ここでパウロが語っていることは、すべて自分が経験した現実であり、このような困難に遭ってもパウロは伝道することを止めなかったのです。それが「キリストの愛から引き離されない」ということ、神様との愛の交わりの中に生きるということでした。
パウロは、38〜39節で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と告げます。35節は、物理的な肉体的なキリストの愛から私共を引き離す力について語りましたが、38〜39節においては、天と地に存在するキリストの愛から私共を引き離すあらゆるものを指しています。経験から語る35節に対して、38〜39節ではそれを元に思弁的、論理的に語ろうとしています。つまり、パウロは自分が経験したことを論理的に展開して、普遍的なキリストの愛の勝利を語ろうとしているのです。私共を愛してくださり、私共を捕らえてくださっているのは、天と地とその中にあるすべてを造られた、ただ独りの神様です。その神様に造られた被造物が、どうして創造主に敵対することが出来るか、そんな力を持っているものが居るか。居るはずがない。だから、私共と神様との愛の交わりを壊すことの出来るものは、天にも地にも、過去にも将来にも、存在しないということです。これが、信仰に救われた者に与えられている現実の論理的帰結なのです。
6.キリストの勝利に与る
ここで、「パウロは特別だ。神様に選ばれた使徒だし、特別に強い信仰を持っていたのだ。自分はそんなに偉いキリスト者ではない。私の信仰は、そんなに強くない。」そのように思う人がいるかもしれません。しかし、ここでパウロは、「わたしの信仰はこんなに強いのです。皆さんも強くなりなさい。」そんなことを言おうとしているのではありません。そのように読んでしまっては、台無しです。聖書をちゃんと読んでいません。パウロがここで告げているのは、「信仰によって義とされ救われた者は、神様が味方してくださっている。最後の審判において救われることになっている。神様の愛はわたしたちを捕らえて離さない。」ということです。私共が頑張りましょう、などということは何も言っていないのです。
37節を見てください。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とパウロは告げるのです。これは、完全な、圧倒的な勝利の宣言です。キリストの愛は、これらのものと戦って圧倒的に勝利しているのです。この勝利は、イエス様の復活の勝利であり、パウロはこのイエス様の復活の力に与った者として、勝利の証人として立っているのです。キリストの愛に敵対する力や誘惑には、目に見えるものも、目に見えないものもあります。現在私共に認識出来るものも、認識出来ないものもあります。しかし、それらがどんなものであったとしても、それらはすべて神様に造られた「被造物」に過ぎないのです。「死も生も天使も…」はすべて被造物です。ここには明確には記されていませんが、悪魔も、悪霊も、病気も、貧困も、逆に富も、名誉も、どんなものも私共を神の愛から引き離すことは出来ないのです。それは、私共の信仰が強いとか、弱いとか、そんなことではないのです。天と地のすべてを造られたただ一人の神様が、その全能の力を注いで私共を愛してくださっているからです。この全能の父なる神様の御手の中に守られて、私共は天の御国に向かっての歩みを為しているのです。
私共も、程度の差こそあれ信仰の故の苦労や困難というものがあります。しかし、それらには、私共と神様・イエス様との間の愛の交わりを壊す力は無いのです。もし、私共が自分に迫る困難を理由に神様との交わりから離れてしまうとするならば、それは私共がイエス様の十字架から目を逸らしてしまい、祈ることから遠ざかってしまうからではないかと思います。困ったときの神頼みと言いますが、困ったときこそ神頼みなのです。そして、そこに証しが立つのであり、私共は証しを立てる者として召し出されているのです。困難に直面したときというのは、私共にとっては「証しが立つとき」なのです。良いですか皆さん。神様は、わたしたちの味方なのです。御子を十字架にお架けになるほどに愛してくださっているのです。この神様の愛を壊すことは、この世界に存在する如何なるものにも出来ないのです。ですから、恐れることなくしっかりと、信仰の眼差しを天におられる父なる神様とその右におられる主イエス・キリストに向けて、この一週も遣わされている場において御国に向かっての歩みを為してまいりましょう。
[2016年7月10日]
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