1.ハイデルベルク信仰問答 問35、36について
今日は、北陸連合長老会の交換講壇ということで、私共の信仰の遺産であるハイデルベルク信仰問答を巡って説教することになっております。まず、ハイデルベルク信仰問答の問35、36をお読みします。
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」とは、どういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリアの肉と血とから、まことの人間性をお取りになった、ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。
答 この方が、わたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによって、罪のうちにはらまれたわたしたちのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
ハイデルベルク信仰問答は1563年に作られたもので、現在に至るまで、改革派の伝統にある世界中の教会で用いられているものです。129の問いと答えが52週に分かれていて、一年間ですべて学べるようになっております。今朝のこの問35と36は第14主日で扱うようになっています。目次を見ると分かるのですが、ハイデルベルク信仰問答は三部構成になっていて、第一部は「人間の悲惨さについて」、いわゆる原罪について語ります。第二部は「人間の救いについて」として、使徒信条に言い表されております救いの筋道と、聖礼典について記します。そして第三部は「感謝について」として、十戒と主の祈りについて語るのです。
今日与えられております問35、36は、第二部の「救いについて」の中にあり、使徒信条の「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、」について解き明かしている所です。イエス・キリストというお方は誰なのか、どういうお方なのか、そのことを言い表しています。
2.使徒信条について
私共は毎週、使徒信条をもって信仰を告白しておりますが、この使徒信条は文字通り、使徒以来の信仰が簡潔に告白されているものです。この成り立ちについて一言申し上げるとすれば、これは洗礼を受ける人のために、教会が自らの信仰内容をまとめたものであり、三世紀頃の古ローマ信条が原型になっていると考えられています。教会が洗礼を施す際に、何を信じているのかを確認するわけですが、その確認すべき内容が簡潔にまとめられているわけです。使徒信条は、父と子と聖霊なる神様を信じるという、三位一体の神様への信仰を言い表しています。これがとても大切な点です。そして、今朝与えられております所は、子なる神様、主イエス・キリストへの信仰を言い表しているところです。「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。」と告白し、その直後に「主は」と始まる所です。子なる神様であるイエス様について、使徒信条は「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、」と告白するとすぐに、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、」というように、イエス様の誕生の後すぐに十字架の御苦難のところに飛んでしまいます。イエス様がお語りになったことや為された数々の奇跡などには全く触れないのです。どうしてでしょう。
それは、イエス様の誕生において、イエス様が誰であるかが明らかにされ、そのお方が十字架にお架かりになったこと、復活されたこと、そのことさえはっきりしていれば、私共の救いの筋道は明らかである。そのように代々の聖徒たちは考えたからでありましょう。このことは、とても大切なことだと思います。私共が、福音書においてイエス様の御言葉、イエス様の御業について見る時、それはあのクリスマスにお生まれになった方が語られた言葉だ、為された御業だ、あの十字架にお架かりになって復活された方が語り、為された御業だということを抜きに受け取ることは出来ないし、それ無しに正しく理解することは出来ないということなのです。
3.クリスマスにお生まれになった方
では、あのクリスマスにお生まれになった方とは、どのようなお方なのでしょうか。まず、与えられている聖書の言葉に聞いてみましょう。ヨハネによる福音書1章14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」これが、ヨハネによる福音書が告げるクリスマスの出来事です。ここには、クリスマスに付きものの、博士も羊飼いも出て来ません。ちなみに、博士はマタイによる福音書、羊飼いはルカによる福音書ですね。マルコによる福音書にはクリスマスの記述そのものがありません。しかし、マルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という言葉で福音書を書き始めています。マルコによる福音書は、イエス・キリストは神の子であるという明確な宣言をもって書き始めているのです。つまり、どの福音書も、イエス・キリストとは誰なのか、どういうお方なのか、そのことを横に置いて福音書を書くなどということはなかったということなのです。そもそも、福音書は何のために書かれたのかと言えば、イエス・キリストとは誰なのか、この方によって何が為され、何が私共に与えられたのか、そのことを明らかにするために記されたのです。ですから、それぞれの福音書は、その冒頭において、クリスマスの出来事を記すあり方にせよ、そうでないあり方にせよ、イエス・キリストとは誰なのか、そのことを明らかにしようとしたのです。
もう一度、ヨハネによる福音書1章14節を読んでみます。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」この「言」とは、1章1〜3節で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と言われている「言」です。つまり、父なる神様と永遠に共におられる子なる神、キリストのことです。このまことの神であられるキリストが、肉となった。肉体を取られた。人間となられた。そして、この地上を歩まれた。それがイエス様なのだと告げているのです。
つまり、イエス・キリストというお方は、永遠の神の御子キリストが肉体を取り、人となられたお方だということです。ここで大切なことは、イエス・キリストはまことの神であられると同時に、まことの人であられるということです。これは、カルケドン信条という、ニカイア信条を解釈した信条としてとても大切な信条において定式化されたものです。イエス・キリストというお方の中に、まことの神とまことの人という二つの本性が、分離せず而して混合せずにあるということです。「まことの神にしてまことの人」ということです。カルケドン信条という言葉にあまり馴染みない方は、この機会にぜひ覚えてください。そして、「まことの神にしてまことの人」ということも覚えて欲しいと思います。
4.まことの神にしてまことの人
しかし、この「まことの神にしてまことの人」ということは、考え始めると頭が痛くなってよう分からん、というようなことかもしれません。どうして「永遠の神、無限の神」が「死ぬべき人間、有限な人間」になられたのか、なり得るのか。天地を造られた大いなるお方が、どうしてこんな小さく弱い人間になられたのか、なることが出来るのか。さっぱり分からん。そういうことになってしまうかもしれません。確かに、よく分かりません。これをうまく説明出来る人などいないだろうと思います。それは、この出来事が私共の理解を超えた神の秘義だからでありましょう。
しかし、私共にもはっきり分かっていることがあります。それは、イエス・キリストというお方が「まことの神」であられるが故に、私共の一切の罪の裁きを引き受け、担うことがお出来になったということ。そして、イエス・キリストというお方が「まことの人」であられるが故に、私共の身代わりになって十字架の上で裁かれ、死ぬことがお出来になったということです。私共と同じ人間でなければ、私共の身代わりにはなれません。そして、まことの神様でなければ、すべての人の罪の裁きを引き受けることなど出来るはずがありません。まことの神であられたキリストが、まことの人であるイエスとしてお生まれになった。それは実に、私共を救うため、私共のために私共に代わって十字架にお架かりになるためだったということなのです。
まことにありがたいことです。このイエス・キリストというお方が「まことの神にしてまことの人」であられるということ、そのようなお方として地に降って来られたということは、私共の小さな頭の中で理解することではなくて、賛美すべきこと、感謝すべきことなのでありましょう。
キリスト教の真理というものは、そのように私共を神賛美へと導くものなのです。私共の信仰は、「なるほど」とか「へーっ」と言って感心したり、分かった気になるような所で終わるようなものではないのです。そうではなくて、「ハレルヤ。主よ、ありがとうございます。何と素晴らしいことでしょう。」と神に感謝をささげ、賛美する所へと導いていくものなのです。
「聖書が分かった」とか「神様が分かった」とか「信仰が分かった」とか言う場合、もちろん、聖書も神様も信仰も、人間が全部分かり尽くすことなんて出来ません。しかし、そのほんの一部でも分かりますと、それはもう、嬉しくて嬉しくて仕方がない。それは、期末試験の一夜漬けのように、すぐに忘れてしまうような分かり方ではないのです。その分かってしまったことをもう忘れることは出来ませんし、知らなかったことにすることも出来ません。その分かったことによって、自分の人生が変わってしまうからです。そして、神様に感謝し、賛美しないではいられないのです。喜びに溢れてくるのです。イエス様が誰であるかが分かる。まことの神にしてまことの人であることが分かる。それは、そういうことなのです。
5.わたしたちは見た
もう一度、14節を読んでみましょう。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここで、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。この「わたしたち」とは誰のことなのでしょう。この手紙を書いた人、そしてこの手紙を読んだ人のことでしょう。それは、この手紙が書かれた、今から二千年近く前の人たちだけのことなのでしょうか。そうではないとおもいます。この「わたしたち」とは、この福音書を読んで礼拝している、ここにいる、まさに私共をも含んでいるのです。私共はこの礼拝において何をしているでしょうか。私共は毎週ここに集まって、イエス様の救いの御業、十字架と復活を、信仰のまなざしをもって見る。そして、「あなたの罪は赦された。わたしがあなたのために、あなたに代わって十字架についたのだから、もう大丈夫。安心して行きなさい。」との宣言を受ける。イエス様の言葉を受ける。それは、恵みと真理に満ちた神様をほめたたえないではいられない、実に神の独り子としての栄光に満ちた姿を見たのであり、神の独り子としての力と権威に満ちた言葉を聞いたということなのでありましょう。私共はこの礼拝において、そのようなイエス様と出会い、イエス様を見る。それが無ければ礼拝にはならないのです。
6.恵みの上に、更に恵み
16節を見ましょう。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」この方、つまりイエス・キリストの満ちあふれる豊かさ、それは愛であり、信仰であり、希望であり、忍耐であり、赦しであり、命であり、平安であり、祝福であり、喜びでありましょう。その満ちあふれる豊かさの中から、私共一人一人は恵みを、更にその上に恵みを受けたのです。満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。私はこの御言葉が大好きです。イエス様から恵みを受けるのは、一回で十分。そんなものではないのです。何度も何度も、繰り返し繰り返し、恵みに恵みを加えられ続けている。それが私共の信仰の歩みなのでしょう。まさに恵みの嵐ですね。私共の存在、私共の一足一足が、このイエス様の満ちあふれる恵みの故なのです。
私共は、ちゃんと霊の目を開いて見れば、いつも神様の恵みのただ中にいるのですよ。私共の信仰のまなざしが開かれるというは、このあふれるばかりの恵みに気付くようになるということなのではないでしょうか。私共の目は信仰によって開かれないと、逆に、足らないこと、困ったこと、嫌なことにばかり向けられていきます。罪人としての人間は闇が好きなのですね。放っておきますと、必ずそちらに目が向く。そして、不安、悲しみ、怒り、争い、不平といったものに満たされていくものなのです。しかし、私共がイエス様の救いに与り、霊の目が開かれますと、そうじゃない。イエス様の中にある満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けている、その恵みの事実に気付くのです。
7.仲保者イエス
さて、もう一度ハイデルベルク信仰問答の問35と答を読んでみましょう。
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」とは、どういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、すなわち、まことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊の働きによって、処女マリアの肉と血とから、まことの人間性をお取りになった、ということです。それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。
ここではっきりと、神の御子が人間となったと告げられています。「聖霊によりてやどり」ということがイエス・キリストの神性を示しており、「処女マリアより生まれ」が、イエス・キリストの人性を表しています。
そして、問36と答。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。
答 この方が、わたしたちの仲保者であられ、御自身の無罪性と完全なきよさとによって、罪のうちにはらまれたわたしたちのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
ここで「聖なる受肉」という言葉が使われています。この「受肉」とは、神の御子であるキリストがイエスという人となられた、肉を受けた、という出来事を表す言葉です。この言葉は、イエス様以外に用いられることはありません。この受肉の出来事によってお生まれになった方が、私共と神様との仲保者となってくださったのです。この「仲保者」という言葉も神学用語でありますが、この言葉の意味は説明しなくても、皆さんには分かるだろうと思います。聖なる神と罪人である私共の間に立って、神様の怒りを我が身に受け、私共を神様に執り成してくださり、私共の罪を神様の御顔の前で覆ってくださり、和解へと導いてくださった方。それが仲保者です。
この仲保者イエスについて丁寧に記しているのが、ヘブライ人への手紙です。8〜9章の「大祭司イエス」についての話の中で何度も触れられておりますが、新共同訳では「仲保者」ではなくて「仲介者」と訳しています(8章6節b、9章15節、12章24節)。これはいただけません。仲介者というのは、契約の当事者ではありません。しかしイエス様は、神と人、両方の当事者であり、実に御自分の十字架の死をもって新しい契約をお立てになったのです。イエス様とは別の所で新しい契約があったわけではないのです。この仲介者という訳は、そのような誤解を招く誤訳と言わなければならないでしょう。
イエス様は私共を救うために、まことの神、まことの人として来られ、十字架の契約を立て、仲保者となってくださいました。このイエス様の執り成しの中で、今日も生かされ、このように礼拝を守ることが出来る幸いを、まことにありがたく感謝するものであります。どうか、私共の霊の目がいよいよはっきりと開かれて、与えられている恵みを数え上げ、主をほめたたえつつ、この一週もまた主と共に、主の御前を御国に向かって歩んでまいりたいと思います。
[2016年9月18日夕礼拝]
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