富山鹿島町教会

礼拝説教

「主が来られる日に備えて」
詩編 96編10〜13節
テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.終末こそ私共の希望
 テサロニケの信徒への手紙一を読み進めています。前回4章13節以下の、イエス様が再び来られる時の御言葉を受けました。終末の希望です。イエス様が再び来られる時、キリストに結ばれて死んだ人は復活し、まだ生きている人は主と出会うために引き上げられる。そして、永遠に主と共にいることになる。これが、私共に約束されている救いの完成です。私共はこの日が来ることを信じ、この日に向かって信仰の歩みを為していく。私共の希望はこの地上にあるのではなくて、イエス様の再臨によってもたらされる終末に完成される救い、そこにあるわけです。この地上の生涯において手に入れるすべての栄誉も富も、やがて過ぎ去っていくからです。死というものに飲み込まれてしまうからです。しかし、復活があるのです。イエス様が再び来られる時、私共は復活する。イエス様に似た者として復活する。神の国に入るのです。これが私共に与えられている、決してしぼむことのない希望なのです。

2.イエス様の再臨は何時か?
 それでは、イエス様はいつ天から降って来られるのか。誰もがそう思うでしょう。このことについて、パウロはこう告げるのです。5章1節「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」いつその時が来るのかは、書く必要はない。あなたがたは知る必要はない、というのです。どうしてでしょうか。誰だって興味があるし、知りたいと思うことでしょう。しかし、その必要はないというのです。もっと言えば、それを知ることは私共には許されていないということなのだと思います。時期については、イエス様御自身、天に上げられる時にこう言われました。使徒言行録1章7節「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」また、マタイによる福音書24章36〜37節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と言われています。その時は、天使もイエス様も知らないと言われるのです。その時は、ただ父なる神様だけがご存じのことなのです。つまり、いつ終末が来るのか、いつイエス様が再臨されるのか、それは父なる神様だけがご存じであること、つまり神様の領域のことだということです。
 いつの時代にも、どの国にも、「その時とは○○年の○月だ」と言う人が現れます。何度もその様な人は現れました。しかし、そうなったことは勿論ありません。彼らは嘘つきなのです。現代でもそう言って伝道している人たちがいます。しかし、その人たちは自分が天使やイエス様よりも賢いと思っているのでしょう。この終末について、イエス様が来られる時について、「私は知っている、それは○○年○月だ。」と言っている人たちの話は、聞いてはいけません。これが正しい対応です。
 パウロはここで、いつ来るかを知る必要はないけれど、それは2節「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」と言うのです。盗人は予告してはやって来ません。ある日、突然やって来る。イエス様が来られるのも、それと同じだと言うのです。だから、それに備えていなければならないということをあなたたちは知っている。それで十分だ。そのことが大切なのだとパウロは言うのです。
 更に続けて3節「人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とあります。ここでパウロは、妊婦の産みの苦しみというたとえを用います。産みの苦しみというものは、人間が経験する最も激しい痛みと言われています。それと同じように、耐えられないほどの激しい、厳しい苦しみだというのです。そして、それは必ず来る。いつかは分からないけれども、必ず来る。でも妊婦は、その苦しみを逃れることは出来ません。そして、いつ陣痛が来ても良いように、産みの苦しみが来ても良いように、備えをするわけです。そこが大切な所です。そしてまた、この産みの苦しみというものは本当に辛い時ではありますが、その時を過ぎれば、新しい命を授かった喜びがあるのです。終末もそれと同じだというのです。

3.裁きと救い
 ここでパウロは、盗人と妊婦という二つのたとえを用いました。それは、このイエス様の再臨、終末には二つの側面があるからなのでしょう。一つは神様の裁きであり、破滅です。それはすべての人に及びます。想像するだけでも恐ろしい。しかし、すべての人が滅びるわけではない。救われる者がいる。それが、イエス様と結ばれ、イエス様の救いに与った者たち、つまり私共なのです。ですから、私共は終末が来ることを恐れおびえる必要はないのです。
 世の中では、イエス様の再臨抜きの終末が語られます。それは、疑似終末、偽物の終末とでもいうべきものです。例えば、核戦争で世界は終わるとか、公害で世界は終わるとか、彗星が地球に衝突して世界は破滅するとかいった具合です。しかし、聖書に基づいて申し上げますが、イエス様が来ることなく終末が来るということはありません。終末というものは、神様の裁きなのであって、自然現象なんかではないのです。この終末の時に、救いの完成も為されるのです。
 4〜5節「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」とあります。私共は光の子、昼の子だと言われています。まことの光であるイエス・キリストと一つにされた。だから、私共は「光の子」なのです。私共の中から光が発せられる、光り輝く者となっている、そういうことではないでしょう。イエス様のもの、イエス様と一つにされた者ということです。「昼の子」というのは、盗人が暗躍する夜、そういう領域で生きる者ではなくなった者だということです。イエス様と出会い、イエス様の救いに与るまで、私共は暗闇の中におりました。しかし、そこが暗闇であるということを知りませんでした。光を、昼の光を浴びたことがなかったからです。しかし、イエス様に救われて、光を受けた。光を浴びた。今は昼だということが分かった。そして、生きる場所が変わり、生きる目的も、生きる喜びも、すべてが変わってしまったのです。ですから、盗人が突然やって来るように、突然主の日がやって来て、私共を襲うことはもうないのです。何故なら、私共は「夜の子」ではなく、「闇の子」でもないからです。最早、私共は暗闇の中に生きていないからです。だから、安心して、楽しみにして、主が再び来られるのを待てば良いのです。救いに与ることになっているからです。
 この救いの確実性、救いの保証というものはどこにあるのでしょうか。9〜10節「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」ここで、私共は救いに与るように定められたと言います。誰が定めたのか。神様です。神様が私共を救うように定めてくださったのですから、滅びるはずがないのです。終末における裁きは、神様による裁きですから、その神様が救いへと定めてくださったのですから、滅びるはずがないのです。そして、そのためにイエス様は死なれた。そう言うのです。神の独り子イエス・キリストが、私共を救いに定めるために死なれた、十字架に架かってくださったということです。

4.キリスト者の生活:目覚めた生活:光の子としての生活
 さて、この終末における救いの完成に与ることになっている私共。それは、暗闇の子、夜の子とは違った生き方、日々の生活があるということです。光の子・昼の子としての生活です。それがクリスチャン・ライフ、キリスト者の生活というものです。
 6節「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」とあります。眠っていないで、目を覚ましていましょうというのです。これは肉体的な眠りではなくて、霊的な眠りを示していることは明らかです。では、霊的に眠りこけないで目を覚ましているとは、どういうことでしょうか。難しく考えることはありません。ちゃんと信仰者として歩むということです。主の日の礼拝を守り、日々の生活の中で祈りの時間を持ち、御言葉に聞いて、イエス様がいつ来られても良いように備えているということです。それは特別な生活ではなくて、ごく当たり前の生活です。自分の手で稼ぎ、食べていく。その当たり前の生活を、主の御前で為していくということです。「神様なんて関係ない」ではなくて、主が喜ばれることを、当たり前の生活の中で、当たり前のこととして為していくということです。
 7節に「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。」とあります。酒に酔う人は、夜に酔うのです。昼間から酒を飲む人はあまりいないでしょう。昼間から飲んでいたら、当たり前の生活は出来ませんから。昼間から眠る人も、(夜勤で働いている人は別ですよ、そうではなくて、)昼間から眠っていたら当たり前の生活は出来ないわけです。夜、それは私共の欲望やだらしない自堕落な面が出て来てしまう時です。私共にも、そういう面がある。キリスト者になったら、そういう面が全くきれいさっぱり無くなった。なかなかそうはいかないでしょう。しかし、それに支配されたり、自分から求めてそちらの生活に戻ってはいけないのです。神様の光の中に生きる者とされたということは、昼間の生活をするということ、神様の御前で当たり前の生活をするということです。
 一人でいると危ない。以前の生活に戻ってしまいそうになる。そんな思いを懐く人がいるかもしれません。だったら一人にならないで、教会に来たら良いのです。そうしたら、教会で昼間から酒を飲むことはありませんから、素面で、目を覚まして歩むことが出来るのです。
 ここで大切なことは、目を覚まして、慎んで生活する、それによって光の子、昼の子になって、終末の救いに与りましょう、というようなことではないということです。もう光の子なのです。昼の子なのです。救いに定められているのです。だから、それにふさわしく生きましょうということなのです。闇の子、夜の子ではなくなったのですから、神様の光に照らされることから逃げるように自分の欲に引き回されることなんか、もう出来ないではないか。祈りの中で、礼拝の中で、主との交わりを与えられた者として生きていく。それがキリスト者なのだ。そうパウロは告げているのです。

5.闇と戦う光の子の共同体
 私はここで、光の子、昼の子による共同体というものがどうしても必要になるのだと思います。この世にはこの世の常識があります。現代の日本には現代の日本の常識があり、価値観があります。しかしそれが、キリスト者の常識、キリスト者の価値観と全く同じであることなどあり得ないのです。いつの時代、どの国であっても、そうだと思います。だから、光の子、昼の子としての目を覚ました生活とはどういうものなのか、それを私共は形作っていかなければならない。そうでないと、光の子なのに、いつの間にか闇の子のような歩みを平気でしてしまう。闇の子のような歩みをしていても気付かない。そういうことになってしまうのではないかと思うのです。教会の世俗化とはそういうことです。現代日本の常識・価値観が、キリストの教会に生きる私共の中に忍び込み、浸食し、光の子として生きるということが分からなくなってしまう。ここに現代のキリスト教会の大きな課題があると思います。いや、現代のキリスト教会の課題というよりも、キリストの教会は生まれたときからずっと、二千年の間この問題と戦い続けてきたのです。これは、霊の戦いなのです。
 8節を見てみましょう。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」キリスト者の生活は、信仰と愛と希望、信・望・愛によって守られ、支えられていくということです。この信仰と愛の胸当て、救いの希望の兜という武具は、みな守りの武具です。パウロがイメージしているのは、悪魔やこの世の習慣、考え方といった誘惑から身を守りつつ、終末に向かって歩み続けるキリスト者の姿なのです。
 父・子・聖霊なる神様を信じ、神様を愛し、隣人を愛し、そして終末の希望・信仰の命の中、いつイエス様が来られても良いように備えをして生きる。何度も申しますが、そのような生活をしたから救われるのではないのです。既にイエス様の十字架によって救われることに定められている、光の子、昼の子とされているのだから、それにふさわしい生活を整えていくということなのです。それは、もうこれで十分というようなものではなくて、11節に「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」とありますように、互いに励まし合い、慰め合って、この恵みに応えるにふさわしい群れ、教会となっていくということなのです。
 教会に来れば、礼拝に集えば、光の子、昼の子とはこういうことなのと分かる。或いは、教会の交わりの中に身を置いていれば、信仰・希望・愛によって生きるということが身についていく。そのような教会になっていくということです。私共は、そのような教会になることを目指しているのでしょう。それが教会を建てるということ、教会形成ということなのです。
 この恵みのすべて、この歩みのすべてを与えるために、イエス様は十字架にお架かりになりました。10節「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」このイエス様の十字架の故に、イエス様が再び来られる時、その時私共が生きていても、或いは既に死んでいたとしても、私共は主と共に生きるようになる。それが私共に備えられている、救いの完成です。
今、私共は聖餐に与りますが、この聖餐は、私共に備えられている救いの完成の恵みを指し示しています。私共は、やがて御国においてイエス様と共に、代々の聖徒たちと共に、食卓を囲むことになるのです。それは何と大きな喜び、何と素晴らしいことでしょう。今、信仰のまなざしを高く天に向けたいと思います。

[2016年10月2日]

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