富山鹿島町教会

礼拝説教

「喜びなさい。大いに喜びなさい。」
歴代誌下 36章11〜16節
マタイによる福音書 5章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベント第三の主の日を迎えています。いつもの年ですとアドベント第四の主の日にクリスマス記念礼拝を守るので来週がクリスマス記念礼拝となるところですが、今年はちょうど12月25日が日曜日ですので、アドベントの主の日を四回迎えることになります。
 山上の説教の冒頭にありますイエス様の祝福の言葉を受けながら、アドベントの日々を歩んでいる私共です。今日はその八番目と九番目の祝福の言葉、10〜12節の御言葉を受けてまいります。

2.イエス様の祝福の言葉を受ける際に大切な二つのことの確認
 さて、今まで「心の貧しい人々は、幸いである。」から始まりまして、イエス様が告げられた七つの幸い、七つの祝福の言葉を受けて参りました。そこで、このイエス様の祝福の言葉を受ける際に大切なことが二つあると申し上げてきました。
 一つは、このイエス様の言葉は、御自分の所に救いを求めてやって来た人々、弟子たちであり、群衆であり、そしてイエス様の御前に集っている私共に向けて告げられた言葉であるということでした。これはイエス様が一般的な話をされているのではないのです。「あなたたちは頼るものがない。心が貧しいね。でも幸いだ。わたしの所に来たのだから。わたしが幸いにする。天の国はあなたがたのものだ。」そうイエス様は告げられた。「天の国に入るためには心が貧しくならなければいけない。」というように、イエス様の祝福を受ける条件として、これを読んではいけないということでした。イエス様は御自分の所に救いを求めて来た人々を祝福し、幸いへと導いてくださるのです。そこには条件なんてありません。こういう人でなければ幸いを与えない。そんなことをイエス様は決して言われないのです。ただイエス様に助けを求める。本気で求める。それで十分なのです。そのような者をイエス様は必ず幸いへと導き、祝福を与えてくださるのです。
 もう一つは、イエス様は御自分に救いを求めて来た人と一つになるというあり方で祝福され、幸いへと導かれるということです。イエス様によって救われる、イエス様の救いに与るということは、実にイエス様と一つにされるということなのです。私共が洗礼を受けるいうこともまさにイエス様と一つにされる契約を結ぶことですし、聖餐に与るということもイエス様の体と血とが私共の中に入ってイエス様と一つになるということです。まことに柔和な人、まことに義に飢え渇く人、まことに憐れみ深い人、まことに心の清い人、まことに平和を実現する人、それはイエス様御自身のことです。そのイエス様と一つにされるが故に、私共はまことに幸いな者となるのです。
 この二つのことを確認した上で、今日の御言葉を見てみましょう。

3.八番目の祝福
 10節に「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とあります。これが八番目の祝福です。これは、ここまでは9節までに告げられてきた七つの祝福の言葉と同じ形で告げられています。しかし、11〜12節の九番目の祝福は10節までの八つの祝福と形を見ただけでも違います。3〜10節の八つの幸いは、「○○の人々は幸いである」と始まっているのですが、11節は「○○の人々は」という言い方ではありません。しかも、その内容は、「迫害される人々」についてです。ですから、11〜12節の九番目の祝福は、10節の八番目の祝福「義のために迫害される人々は、幸いである」と同じだ。そのように受け取ることが出来るかと思います。そうしますと、この山上の説教の冒頭で告げられているのは八つの祝福だということになります。教会の歴史の中で、この個所が八つの祝福、「八福」と言われて来た理由はそういうことです。内容から見ても、形の上から見ても、10節の八番目までの祝福はまとまっているからです。
 この最後の八番目の祝福は「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」です。そして、最初の祝福は3節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」でした。お気付きになられたでしょうか。最初の祝福における幸いの理由と、八番目の祝福における幸いの理由は、全く同じなのです。「天の国はその人たちのものである」です。つまり、このイエス様の祝福は、全体が「天の国はその人たちのものである。」ということに挟まれている、枠付けられているということなのです。このことは、イエス様の祝福というものは実に「天の国」に入れられる、それによって与えられ、完成されるものだということなのでありましょう。イエス様の与えてくださる幸いというものは、この地上において目に見える何かが与えられて実現する、そんなものではないということです。もちろん、天の国に入るまで何も無いということではありません。そうではなくて、天の国において完成される祝福・幸いというものを、私共はこの地上の歩みにおいて先取りしているのだということです。救いに与っているというのは、そういうことです。私共はまだ救いの完成としての姿、イエス様に似た者にはなっていません。しかし、そこに向かって、既に歩み始めている。それはアドベントの歩みを為しながら、既にクリスマスの喜びに包まれているということと似ています。私共は、イエス様が再び来られるのを待ち望みつつ、既にイエス様が来られる時に与る喜びに与り始めている。この礼拝に与る喜びがそれを示しています。

4.迫害されることを見越しての祝福
 さて、今までの七つの幸い、七つのイエス様の祝福を見てきたわけですが、そこにおいて、このイエス様の祝福は特別に優れた一部の人に与えられたものではない、イエス様のもとに救いを求めて来たすべての人に向けて告げられたものであり、今も私共に告げられているものだということを確認してきました。そうであるならば、「義のために迫害される」或いは「イエス様のためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる」ということも、イエス様の所に救いを求めて来たすべての人の上に起きることだということになるのではないでしょうか。これは正直な所、誰もそんな目に遭いたくないと思います。迫害に遭うことを喜び、これを求める人などいないでしょう。でも、そうなのです。そして、それは実に幸いなのだとイエス様は告げられるです。
 この時、この言葉を告げられた人々、イエス様の所に来た群衆やイエス様の弟子たちは、まだ迫害に遭ってはいません。しかし弟子たちは、イエス様が十字架にお架かりになり、三日目に復活された後、イエス様の福音を宣べ伝える者として出て行った所で、確かに迫害を受けました。イエス様はこの時、既にそのようになるということを御存知であり、このように告げられたのでしょう。そして、このイエス様の言葉によって、弟子たちも、迫害を受けた代々の聖徒たちも、大いに力付けられ、まなざしを天に向け、信仰を守ることが出来たのです。
 「義のために迫害される」とは、自分の義しさやこの世の義しさのために迫害されるということではありません。この「義」とは、「神の義」です。イエス様によって与えられた所の義、信仰による義です。つまり、「義のために迫害される」とは、まさにイエス様のために、イエス様の御名のために迫害されるということなのです。
 また迫害と一口に言っても、その徹底性、程度というものには色々あります。しかし、どのような迫害であれ、そのような目に遭うことは大変厳しいものです。ですから、そこで信仰を捨てるという人も出て来ますし、それでもなお信仰を保持するという人もいるわけです。そして、迫害の中でも信仰を保持した人々にとって、このイエス様の祝福の言葉は、本当に力になったのです。この御言葉によって支えられ、堪え忍ぶことが出来たと言っても良いと思います。このような信仰に生きた人々を、私共は教会の歴史の中で幾らでも思い出すことが出来ます。

5.迫害された人;ステファノ
 聖書の中で見ても、パウロがそうでしたし、ペトロもそうでした。弟子たちは皆、迫害を受けたのです。使徒言行録にはその辺りのことが記されております。その中で、使徒言行録6章8節〜7章にわたって、ステファノの殉教の場面が記されています。ステファノは、イエス様の福音を宣べ伝えたが故に捕らえられ、最高法院に引かれていきました。そこでステファノは、堂々とイエス様の福音を説教します。そして、それを聞いた人々は激しく怒り、ステファノを都の外に引きずり出し、みんなで石を投げて殺そうとしました。その時に、7章55〜56節「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」とあります。また、石を投げつけられながら、60節「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と大声で叫んだのです。そして、まさに息を引き取ろうとする時、彼は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈ったのです。
 このステファノの姿は何を意味しているでしょうか。ステファノは天を見上げながら、死を迎えます。つまりステファノは、この迫害の中で死ぬという時に、実に十字架のイエス様と一つにされ、天における栄光を見上げたのです。そして、十字架のイエス様と一つにされて、イエス様が十字架の上で祈られた祈りと同じ祈りを捧げたのです。実にこれこそ、イエス様がこの祝福において12節で「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」と告げておられることの成就だったのです。ステファノは喜びました。大いに喜びました。天のイエス様を見ることが出来たからです。そして、「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」とイエス様が言われたその迫害された預言者とは、誰よりもイエス様のことだったのです。迫害されたイエス様と一つにされる、十字架のイエス様と一つにされる、その栄光、その喜びこそ、ステファノに与えられたものだったのです。だから、ステファノは喜びました。大いに喜んだのです。

6.迫害された人;小原十三司
 迫害と言えば、遠い昔の話、外国の話、そう思われる方も多いでしょう。しかし、この日本でもほんの70年前に起きたことなのです。1942年6月26日、多くのホーリネスの教会に特高警察が踏み込み、たくさんの牧師たちが捕らえられました。その中に当時ホーリネスの教会の中心人物であった小原十三司(おばらとさじ)という牧師がおりました。終戦まで服役することになった人です。この方のお子さんたち、お孫さんたちの多くが牧師になりました。その中の一人にK・YさんというO教会の牧師がおられます。神学校で私の数年後輩になります。数年前に富山地区婦人研修会に講師として来ていただきました。この方のお母さん、小原十三司のお嬢さんが育つ時、お父さんは刑務所に服役していました。その時、小原十三司の妻は娘に向かって「あなたのお父さんは、イエス様の御名のために刑務所に入れられるほどの人物であることを、誇りとしなさい。」と言われたそうです。当時、敵性宗教として白眼視されていたキリスト教の牧師の娘であり、しかもお父さんは刑務所に入れられている。学校でも当然謂われのない悪口を言われ、いじめられ、悔しい思いをしていた娘に向かって、そう言ったのです。そして、この「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(11節)の御言葉を教えられたそうです。そして、そのように育てられた娘も牧師となり、またその息子も娘も牧師になりました。まさに、「義のために迫害される人々は、幸いである」との御言葉が成就したのです。

7.迫害を超えて広がるイエス様の救い
 私共は、迫害は自分とは遠いことだと思っていると思います。確かに、今の日本では迫害と言うほどのことは起きないかもしれません。しかし、洗礼を受ける段になると、色んなことを周りから言われ、一歩が踏み出せない。それは今でもよく起きていることでしょう。実は、イエス様がここで「迫害される人々は、幸いである」と言われたということは、迫害されるということは、特別なこと、例外的なことではないということです。イエス様の福音に生きる。信仰に生きる。そうすると、いつの時代、どの国であっても、必ずキリスト者と世間との間において摩擦が起きる。身に覚えのない悪口を言われるのです。私共は、キリスト者は世間から良く言われるのが当たり前と勘違いしてはいないでしょうか。もし良く言われる、良く思われるということがあるなら、それは先人たちの証しのお陰なのです。
 ローマ帝国においてキリスト教が広まっていく中で、まずキリスト教に向けられた悪口は、「無神論者たち」「不信心な者」というものでした。皆が拝んでいる偶像を拝まなかったからです。そして、聖餐だと言って人の肉を食べ、人の血を飲む、恐ろしい宗教だと言われました。また、信徒同士の愛を大切にすることから、ふしだらな宗教と言われ、非難されました。どれもこれも、キリスト者、キリストの教会にとって、身に覚えのない悪口です。
 また、ユダヤ教からキリスト者になった人は、ユダヤ人のコミュニティーから追放されました。そのような現実の中で、この迫害される人々に向けて告げられたイエス様の祝福の言葉が、どんなに力になり、励みになったことか。そして、良いですか皆さん。迫害されようと、悪口を言われようと、ののしられようと、イエス様の福音は確実に広がっていったのです。「殉教者の血は教会の種」という言葉が生まれたほどです。しかし、イエス様の福音は、そのような迫害、悪口にさらされながらもローマ帝国中に広がっていったのです。
 この日本という国において、イエス様の福音は、江戸時代の徹底した迫害と鎖国によって閉め出されました。江戸幕府によってキリスト教を閉め出すために作られた制度、それが檀家制度です。これは今でも機能しています。しかし、喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがあるからです。私共は天の国に入れられることになっているからです。そして、イエス様の福音はこの日本においても必ず根を張り、枝を伸ばし、豊かな実を付けていくことになっているのです。それは、イエス様の福音を、イエス様の祝福を潰すことが出来る力など、この世のどこにも存在しないからです。イエス様はこの世界を造られた神の独り子だからです。

[2016年12月11日]

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