1.はじめに
今朝与えられております御言葉は、イエス様によってペトロのしゅうとめがいやされたこと、そして大勢の病人がいやされたことが記されております。マタイによる福音書の8章は、小見出しを見ていただきますと、1節からは「重い皮膚病を患っている人をいやす」とあり、5節からは「百人隊長の僕をいやす」とあります。そして、今朝与えられております14節からの「多くの病人をいやす」と続いています。イエス様のいやしの御業の記事が、三つ続けて記されているわけです。この三つのいやしの記事にはそれぞれ特徴がありますが、今朝与えられております記事は、三番目に記されているということもあり、前の二つをまとめていると申しますか、イエス様のいやしの業とはこういう意味があるのだということをはっきりさせている、そういう位置付けになるのではないかと思います。
2.一日の出来事として
今までの流れを確認いたしますと、マタイによる福音書は5章から7章まで、山上の説教が記されておりました。この山上の説教は、実際にはいろいろな時にイエス様が語られたことを一つにまとめたのだと思いますけれど、マタイはそれを、イエス様が山の上で語られたひとつながりの説教として記しました。そして、イエス様は、群衆と共に山を下って来られると、重い皮膚病を患っている人がいて、イエス様はその人に触れていやされました。続いて、カファルナウム(これはガリラヤ湖の北にある湖畔の町ですが)に行き、百人隊長の僕をいやされました。そして、ペトロの家に行ったのです。14節に「イエスはペトロの家に行き、」とありますが、イエス様はこのペトロの家をガリラヤにおける活動の拠点としておられましたので、ペトロの家に帰ってきたということだと思います。つまりマタイは、その日イエス様は山(といっても、小高い丘のようなものだったと思います)に登って群衆に山上の説教を語り、そこから下りてきて、重い皮膚病の人をいやし、百人隊長の僕をいやし、ペトロの家に戻って来られたと記しているわけです。今申し上げましたように、これは一日のうちに起きた出来事だったと記しているのです。これはなかなか大変な一日だと思います。本当に忙しいと言いますか、ボーッとしている時間もなく、イエス様は人々に説教をし、求めてくる人々をいやされた。そうマタイは記しているのです。
マタイは、このような書き方をすることによって、何を語りたかったのでしょうか。きっと、マタイはイエス様の日々の生活の姿を描こうとしたのではないかと思います。5章から今朝与えられております8章の17節までを一日の出来事と記すことによって、この日だけが特別な日であったわけではなく、イエス様はいつもこのように教えを語り、いやしを為し、休む間もなく生活しておられたということを示そうとしたのでしょう。ですから、この後すぐに20節において、律法学者とのやり取りの中で「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われた。イエス様は枕する所もないほどに、休むことなく働かれた。それは、父なる神様が、天地を造られて以来ずっと、休むことなく御業を為し続けておられるお方だからです。一時も休むことなくすべてを支配しておられる父なる神様の御子であられる故に、イエス様は休むことなく御言葉を語り、いやしを為し、神の国の到来を示されたということなのです。それは今も変わりません。イエス様は天の父なる神様と共におられ、今も変わることなく、休むことなく私共に語りかけ、私共を御国へと導くために働きかけてくださっています。この絶えず働かれるイエス様の御手の中で生かされ、ここに集っている私共なのです。
3.触れることによって、言葉によって
さて先程、今朝与えられた個所は、先の二つのいやしの記事をまとめているようなところだと申しました。それは、まずペトロのしゅうとめのいやしでありますが、15節を見ますと、「イエスがその手に触れられると、熱は去り、」とありますように、イエス様はペトロのしゅうとめに触れることによっていやされました。これは、重い皮膚病の人をいやされた時と同じです。3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」とあります。そして次の、ペトロの家に来た、悪霊に取りつかれた大勢の人をいやした時には、16節「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」とありますように、言葉によっていやされました。これは、百人隊長の僕をいやした時、イエス様は百人隊長の家にも行かず、13節「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われただけで、僕の病気をいやされたことと重なります。つまり、先行する二つのいやしの出来事をなぞるように、イエス様は、触れることによってペトロのしゅうとめをいやされ、言葉によって大勢の病人をいやされたと記されているわけです。
触れることによるのか、言葉によるのか。イエス様にとってそれは問題ではなかったでしょう。この様な場合は触れていやし、この様な場合には言葉でいやすとお決めになっていたということでもないでしょう。イエス様は天地を造られた全能の父なる神様の御子なのですから、どのようなあり方でも人々をいやすことがお出来になったでしょう。しかし、この二つのあり方は、いやされる者にとって、イエス様がどのようにして自分と関わってくださったのかということを示しています。このことは、私共にとっては次のように受け止めることが出来るでしょう。
第一に、イエス様は言葉をもって私共に関わり、いやしてくださる、救ってくださるということです。聖書の言葉、説教の言葉、自分に向けられるイエス様の語りかけによって、私共はいやされ、救われるということです。聞く御言葉により、イエス様の御臨在に触れて、いやされるということです。
第二に、触れることによって。これは少し分かりにくいかもしれません。福音書においては、イエス様は肉体を持ち、いやしの業を為される時にも、実際にその手で触れられたわけです。しかし今、私共はイエス様の姿を見ることは出来ませんし、肉体を持ったイエス様は天に昇られ、今も天の父なる神様の右におられます。とするならば、イエス様は私共にどのように触れてくださるのかということになります。私はここで、見える御言葉としての聖礼典、洗礼と聖餐を考えて良いと思います。私共は、水とパンとぶどう酒を通してイエス様の現臨に触れる。それは、イエス様に触れていただくということなのです。あるいは、キリストの体なる教会を考えることも出来るでしょう。目に見える教会という交わりの中で、私共はイエス様の現臨に触れて、いやされ、救われるということです。
4.ペトロのしゅうとめのいやし
ペトロのしゅうとめのいやしを見てみましょう。14〜15節「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」とあります。ここではっきりと、「ペトロのしゅうとめ」と記されておりますので、ペトロは結婚していたということが分かります。この時、ペトロのしゅうとめは熱を出していたのですが、この熱が何の熱だったのかは分かりません。しかし、長患いの熱ではなかったのではないかと思います。イエス様がその手に触れると、熱はたちまち下がってしまいました。いやされたわけです。ここで大切なことは、このいやされたペトロのしゅうとめがどうしたかということです。「しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」とあります。この「もてなした」と訳されている言葉は、伝える、奉仕する、という意味の言葉です。ここに私共の姿が示されています。ペトロのしゅうとめはいやされました。喜んだことでしょう。イエス様に感謝したことでしょう。そして、その思いは、イエス様をもてなす、イエス様に仕える、奉仕するというあり方となって現れたということです。
ペトロのしゅうとめが具体的にどのようにもてなしたのかは分かりません。イエス様たちの食事の世話をしたのかもしれません。いずれにせよ、大それたことではなかったでしょう。しかし、それで良いのです。大切なのは、喜びと感謝をもってイエス様にお仕えしたということです。私共の為す奉仕の業も、自分がイエス様によって救われた、そのことを喜び、そのことに対しての感謝の中で為されることが何より大切なのです。イエス様にお仕えすることにおいて、大きい奉仕も小さい奉仕もありません。イエス様は、喜びと感謝の中で捧げられる私共の奉仕を喜んで受け取ってくださいます。私共は「出来ることを、出来るように、精一杯」為していくだけです。それが、イエス様にお仕えする者の姿なのでしょう。
5.大勢の人のいやし
次のいやしを見てみましょう。16節「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」とあります。ここでイエス様は、御自分の所に来た病人を「皆」いやされました。この人はいやすけれど、あの人はいやさない。そんな選り好みは為さらないのです。イエス様にいやしを求める人は、必ずいやされたということです。それは今も変わりません。イエス様に救いを求める者を、イエス様は必ず救ってくださいます。条件は何もありません。前の二つのいやしの記事において、イエス様のいやしに与ったのは、重い皮膚病を患っている人であり、百人隊長の僕でした。それは、当時のユダヤ教においては、神様の救いに与ることが出来ないと思われていた人たちでした。しかし、イエス様はいやされました。神様の愛は、すべての人に注がれている、そのことをはっきりと示すためにイエス様は来られたからです。神様の愛から外れる人など一人もいません。イエス様はそのことを知らせるために来られました。だから、イエス様にいやしを求める人、救いを求める人は、皆いやされ、皆救われるのです。自分は神様に愛される資格があるかどうか、そんなことを考える必要は全くありません。ただイエス様を信頼して、救いを求めれば良いのです。
6.十字架と重なるイエス様のいやし
今朝与えられた個所は、前の二つのいやしの記事のまとめ、いやしの意味を明らかにしていると申しました。それは、イエス様が触れていやしたこと、そして言葉でいやしたことが記されているからだということを見ました。しかし、もっと大切なことは、マタイが、このいやしの業は預言者イザヤの預言の成就であったと告げ、イザヤ書53章4節を引用していることなのです。17節b「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」という言葉です。このイザヤ書の預言の成就として、イエス様のいやしの業があったとマタイは告げているのです。
イザヤ書53章。これは苦難の僕の歌と言われるものです。イエス様の十字架への歩みを預言している所として、キリスト教会では受難週などで必ず読まれてきました。私共は、このイザヤ書53章が十字架のイエス様を預言している、指し示している、そのことは知っていると思います。しかし、このイザヤ書53章の預言が、イエス様のいやしの業を預言していると思ったことがあったでしょうか。
イエス様の十字架は、私共の救いのために、イエス様が私共に代わって裁きを受け、苦しまれたという出来事です。ここで引用されているイザヤ書53章4節の「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」という言葉も十字架の出来事の預言として読んできたと思います。その際、「病」や「痛み」を「罪」と読み替えて受け止めてきたと思います。それは間違ってはいないのです。しかし、ここでマタイは、イエス様のいやしの業もまた、このイザヤの預言の成就であったと言うのです。これはどういうことでしょうか。二つ考えられます。
第一に、イエス様のいやしの業は、十字架の出来事と別のこととして理解してはならない、同じ事柄なのだということです。私共は、いやしの業を、ただ肉体がいやされる、そういうこととして受け止めがちです。しかし、イエス様が為されたいやしは、そのような肉体の病をいやすという所にとどまるものではなくて、神様との関係を正す、神様との新しい交わりの中へと私共を招く、そういう出来事であったということです。それは、イエス様と共に神の国がここに既に来ていることを示すのが、イエス様のいやしの業だからです。あなたは神様に愛されている。神の子・神の僕として新しく生きる者となる。そのことをイエス様のいやしの出来事が示しているということです。
第二に、こちらの方がより重要ではないかと思いますが、イエス様のいやしの業は、十字架と同じように、イエス様が私共の患いや痛みを我が身に負われる業であったということです。私共は、イエス様は神様の子としての力と権威があったから、病人をいやすことなんて簡単なことで、パパッといやしたと思っているかもしれません。確かに、イエス様は神の独り子であられますから、いやしの業を為すことは難しいことではなかったでしょう。しかしそれは、イエス様が少しも痛まず、少しも苦しむことなくいやしをなさったということではないのです。私共の罪の裁きの身代わりとなられたイエス様は、十字架の上で苦しまれました。神の御子だから十字架の上で少しも痛むことなく、苦しむこともなかったのでしょうか。そんなことはありません。それと同じように、イエス様は、いやしをなされるたびに、その人の痛みを、苦しみを、我が身に引き受けられたということなのです。自分は痛くも痒くもないところで、人々をいやされたのではないということです。
7.愛の業としてのいやし
つまり、イエス様のいやしの御業というものは、イエス様の力と権威を示すだけではなくて、そこまでして私共と共にあろうとされるイエス様の愛を示しているということなのです。イエス様は、私共の痛みも嘆きも苦しみも、我が痛み、我が嘆き、我が苦しみとして受け止めてくださり、いやされるのです。イエス様のいやしの御業は、不思議な力を持った方が、自分は痛みも苦しみもしないで、その力を発揮した。そんなことではないのです。イエス様のいやしの御業は、あの十字架の出来事と直結しているのです。あの十字架にお架かりになったイエス様が、いやされるのです。私共の罪も、私共の死も、私共の病も、私共の痛みも、イエス様はすべて我が身に負い、担ってくださっています。だから、私共は健やかに歩むことが出来るのです。
私共は、それほどまでにイエス様に愛されているのです。まことにありがたいことです。この愛を受けつつ、この愛の中を、喜びと感謝をもって歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。
[2017年8月13日]
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