1.主は生きておられる
主は生きておられます。主は生きて働いて、私共の日々の歩みを守り、支え、導いてくださっています。私共がどんな状況の時にもです。私共は、何事もなく平穏無事に過ごしている時には、それが当たり前だと思っているところがあります。当たり前だと思っているから、神様に特に感謝することもない。ところが、一旦大変な状況になりますと、どうして神様は何もしてくれないんだ、なぜ私をこんな目に遭わせるのだ、と不平や不満を言う。まことに身勝手な私共です。実に、私共が平穏無事に過ごしている時、私共は神様の守りの故にそのような日々を送っているのでありますし、私共が大変な状況に陥った時も、神様は私共を守り、支え、導いてくださっています。しかし、大変な状況のただ中にいる時には、そのことがなかなか分からないのです。そして、後になってみると、「ああ、あの時も私は守られていたんだなあ。」と思う。そういうことがあるのではないかと思います。私共の神様は、働いたり働かなかったりするようなお方ではないのです。いつでも、どこでも、どんな状況の中にあっても、生きて働き、私共を守り、支え、導いてくださっているのです。先程お読みしました詩編の詩人は、このことをこう歌っています。詩編121編4節「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」実に、神様は眠ることなく、まどろむことなく、私共を守り、支え、導いてくださっています。今朝私共は、御言葉を通してこのことをしっかり心に刻み、共々に主をほめたたえ、主の与えてくださる平安を胸に、ここから各々の場へと遣わされてまいりたいと願っております。
2.イエス様主導のもとで
さて、今朝与えられております御言葉は、こう始まっています。23節「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」この何気ない表現も、丁寧に読んでみますと、改めて気付かされることがあります。それは、イエス様と弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしていたわけですが、その舟にまず乗られたのはイエス様であって、そこに弟子たちもイエス様に従って乗り込んだということです。弟子たちが乗った舟にイエス様が乗り込んだというのではないのです。どっちでも同じではないかと思われるかもしれません。しかし、このことはとても重要なことです。前の段落の18節を見ますと、「弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」とあります。つまり、弟子たちは、自分たちで向こう岸に行こうと言い出したのではないし、自分たちが乗った舟にイエス様が乗ってこられたのでもありません。弟子たちはイエス様に命じられたのです。更に22節を見ますと「わたしに従いなさい。」とありますように、弟子たちは「わたしに従いなさい。」と言われてイエス様が乗った舟に乗り込んだのです。
16節を見ますと、「夕方になると」とあります。イエス様は、夕方になってから多くの病人をいやし、悪霊に取りつかれた人々から悪霊を追い出されました。そして、律法学者とのやりとり、弟子の一人とのやりとりがあって、それから舟に乗ったのです。ということは、既にこの時は夜であったということになります。夜に舟を出す。二千年前のガリラヤ湖です。真っ暗闇だったでしょう。そういう時に舟を出す。弟子の中にはシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネという元漁師だった人たちがいますから、彼らが舟を操ったのかもしれません。もっとも、ガリラヤ湖の漁師だったこの四人の弟子たちが舟を出すのなら、「明日の朝になってからにしましょう。今日は朝からずっと働き通しです。今夜はゆっくり休みましょう。そして、夜が明けてから舟を出しましょう。」そう言ったかもしれません。しかし、イエス様が「向こう岸に行くように命じられ」、イエス様が先に舟に乗り込んだのです。弟子たちはイエス様に従っただけです。変な言い方かもしれませんが、この時弟子たちに落ち度はなかった。夜のガリラヤ湖に舟を出して向こう岸に渡ろうとしたのは、100%イエス様の責任、イエス様の主導のもとで行われたことだったのです。
3.イエス様に従って嵐に遭う
ところが、24節a「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」とあります。湖に舟を出すと、激しい嵐が起きたのです。舟は波に飲み込まれそうになったのです。
ガリラヤ湖というのは海抜約−200mほどの所にある湖です。死海は約−400mほどですから、水はヨルダン川を通ってガリラヤ湖から死海へと流れていくわけですが、海抜−200mのガリラヤ湖は、死海に次いで、世界で2番目に低い所にある湖なのです。この低い所にある湖という地形上、周りの山々から突風が吹いてくるということが起きます。現在でも起きています。
この時も、そのような突然の嵐が、イエス様一行が舟を出したその夜に起きたのです。イエス様一行が乗っていた舟は多分、漁師たちが漁に用いている舟だったのではないかと思います。それはとても小さな小舟です。湖が荒れれば、まさに木の葉のように揺られ、水も入ってくる。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは元漁師でしたが、このような状況になれば、為す術もありませんでした。彼らは、このような突然の嵐の怖さをよく知っていました。きっと漁師仲間の何人かは、このような嵐に巻き込まれて命を落とすということもあったのではないでしょうか。彼らは必死でした。必死に舟を操り、入ってくる水をかき出していたことでしょう。彼らは命の危機を感じていました。このまま嵐が静まらなければ、自分たちはもうお終いだ。そう思ったでしょう。
その時イエス様はどうしておられたでしょうか。聖書は、「イエスは眠っておられた。」と記します。舟は波に揉まれて、めちゃめちゃに揺れているわけです。波を被って、水も入ってくる。よくまあ、そんな状況の中で眠っていられるものだと思いますけれど、この時イエス様は眠っておられたのです。
この眠っておられるイエス様を見て、弟子たちはどう思ったでしょう。一つは、イエス様への不満、怒りのようなものを持ったのではないかと思います。「こんな時によく眠っていられるものだ。」「あなたが舟を出せと言ったからついてきた。どうしてくれる。」そんな思いを持ったのではないでしょうか。そして、もう一つ。「主よ、助けてください。」という願いです。
私共はここではっきり知らなければなりません。イエス様に従っても、いやイエス様に従うが故に、嵐に遭う、絶体絶命の危機に遭遇することがある。イエス様に従っていくならば、必ず平穏無事に日々何事もなく過ごすことが出来るということではないのです。キリスト者になれば、事故にも遭わず、病気にもならない、人間関係のトラブルにも巻き込まれない。そんな保証などないのです。
4.弟子たちを救うイエス様
しかし、イエス様はどうして、嵐に遭うような夜に舟を出させたのでしょうか。イエス様も弟子たちと同じように、嵐が来るとは思わなかったということなのでしょうか。そうではないと思います。イエス様はすべてを知っておられたと思います。しかし、敢えて舟を出したということなのだと思います。何故か。それは、弟子に対する一つの訓練だったのではないでしょうか。
弟子たちはこの時、自分の経験、自分の能力、自分の力ではどうにもならない、自分では自分を救えない、そういう状況に追い込まれました。そこで彼らは、「主よ、助けてください。」とイエス様に助けを求めた。これは弟子たちの叫び、弟子たちの祈りと言っても良い。そして、イエス様はこれに応えて、嵐を静められました。どんな危機的状況であってもイエス様に助けを求めるならば大丈夫。弟子たちはそのことを強烈に思い知ったのではないでしょうか。その経験をイエス様は弟子たちにさせたということなのではないかと思うのです。
イエス様が多くの人々をいやされた時、弟子たちはそれを側で見ていました。しかし、どこか他人事だったのではないかと思います。自分のこととして受け取ってはいなかったと思います。いやされた本人やその家族のように、命を救われた、自分を救っていただいたという思いで、イエス様に従っていたのではなかった。しかし、イエス様に従うということは、自分の命を救ってくださった方、救ってくださる方として従うというあり方以外にないのでしょう。先週見ました律法学者のように、律法についての解釈や知識を増やしたい、もっと知りたいというようなあり方では、イエス様に従うことにならないのです。この方についていけば何か目に見えない良いことがあるだろうということで従うのでもないのです。どんな状況においても自分を助けてくださる方、救ってくださる方として従っていくということなのです。そのことをイエス様は弟子たちの心に、しっかり刻ませる経験を与えられたのではないでしょうか。
5.嵐の中で眠るイエス様
私共は、自分が大変な状況に陥りますと、「神様は何とかしてくれるのか。何もしてくれないではないか。」そんな不平や不満を持つことがあるでしょう。それはちょうど、この大変な時に眠っているイエス様の姿を見た弟子たちの思いと重なるでしょう。イエス様は眠っている。それは、この危機的状況の中で何もしていない姿です。しかし、イエス様は本当に何もしておられなかったのでしょうか。詩編の詩人は「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」と歌いました。しかし、この時イエス様は寝ていました。イエス様は詩編の詩人が歌ったイスラエルを守られる神様ではないのか?神様なら、これは矛盾しているしているのではないか?
この時、イエス様はどうして眠っておられたのでしょうか?眠かったから。そうかもしれません。しかし、それだけではないでしょう。山上の説教とその後に続くイエス様の為さった奇跡は同じことを告げている、と何度も申してまいりました。山上の説教は神の国の秩序、神の国に生きる者の有り様を語られた。そして、その後に続くイエス様の数々の奇跡は、神の国がもうここに来ていることを示している。そういう関係にあることを何度もお話ししてまいりました。イエス様は山上の説教において、6章25節以下で「空の鳥を見よ。」「野の花を見よ。」と言われ、「思い悩むな。」と告げられました。神の国、神様の御支配の中に生かされているのだから、何も思い悩まなくてよい。この言葉を告げたイエス様だから、この時も眠っておられたということなのです。嵐が来ようと、波に飲み込まれそうになろうと、神様はわたしと共におられる。だから大丈夫。この大安心の中にイエス様御自身は生きておられた。だから、この時も眠ったままでおられたということなのでしょう。
6.信仰の薄い者よ
この時、弟子たちに起こされたイエス様は、こう言われました。26節「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」しかし、この状況の中では怖がるのは当たり前です。こんな時に眠っておられるイエス様の方が変なのです。そう、イエス様が変なのです。どうして変なのか。それはイエス様がただの人間ではないからです。神の独り子、まことの神であられるからです。イエス様は風と湖とをお叱りになった。すると、すっかり嵐は静まり、凪になった。こんなことがお出来になるお方だから、イエス様はこの天と地を造られた神様の独り子であられるから、この状況の中でも怖がることはなかったのです。でも、弟子達は怖がった。ただの人間だからです。当たり前のことです。
ここでイエス様は、弟子たちに「信仰の薄い者たちよ。」と言われました。これは直訳すれば、「小さな信仰」です。信仰が無いのではありません。小さいのです。ここでイエス様は、小さな信仰しか持っていない弟子たちを叱ったのでしょうか。そうではないと思います。ただ事実を告げられただけなのです。イエス様は、この嵐の中で水も掻き出さず、悠然とイエス様と同じように眠っていることを弟子たちに求められたのでしょうか。そうではないでしょう。もしそうであるなら、私共は誰もイエス様の求めに応えることは出来ません。
弟子たちの信仰は小さい。それは事実です。私共の信仰も小さいのです。イエス様のように神様と一つとなって、神様に対しての絶対的な信仰の中で生きている者などどこにもおりません。だから、弟子たちと同じように「主よ、助けてください。」と叫ぶようにしてイエス様に祈るしかないのです。そして、イエス様はその叫びに応えて、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言いながら嵐を静めてくださるのです。私共が出来ることは、何とかこの嵐の中でも舟が沈まないように、一生懸命舟を操り、水をかき出し、それでもどうにもならず、「主よ、助けてください。」とイエス様に助けを求めて叫ぶことなのです。そして、イエス様は必ずその叫びに応えてくださるのです。
私はこう思っています。自分としては精一杯やっているのだけれど、どうにもならないことはよくあります。そして、こうなったらどうしよう、こんなふうになったら困るな、そんな不安や怖れにとらわれることが少なくない。その時どうするのか。この時の弟子たちと同じように、「主よ、助けてください。」とイエス様に助けを求めたら良いのです。イエス様は必ずその叫びに応えてくださいます。
皆さんは、自分が不信仰だと思うこと、イエス様に「不信仰な者よ。」と言われていると思うことはありませんか。もし、そのようにイエス様が言われていると思ったなら、大いに安心したら良い。イエス様は、私共に「信仰の薄い者よ。」と言ってお終いという方ではないからです。イエス様がそのように私に言われたなら、必ず、私が怖れている嵐を静めてくださいます。そのことを信じて良い。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ。」と言われたなら、喜び喜んだら良い。このイエス様の言葉を聞く人は、既にイエス様の守りの中に生かされている。イエス様が同じ舟に乗っていてくださっているからです。
7.困難な伝道の歩みの中で
さて、教会の歴史において、イエス様が乗ってくださっているこの舟は、キリストの教会の象徴と考えられてきました。キリストの教会は時代の荒波の中、何度も沈みかけたことがありました。しかし、そうはなりませんでした。教会が知恵を持ち、力を持っていたからではありません。イエス様が共にいてくださり、嵐を静めてくださったからです。
この舟はどこへ向かっていたでしょうか。聖書は「向こう岸へ向かって」いたとしか記していません。この「向こう岸」というのを、彼岸、終末、神の国と読んできました。それもその通りだと思います。しかし、次の28節を見ますと、この舟が向かっていたのは「ガダラ人の地方」であり、イエス様は、この地の墓場に住む、悪霊に取りつかれた二人の人から悪霊を追い出されたことが記されています。つまり、イエス様一行が向かった先はガダラ人という異邦人の地であり、そこに住む悪霊に取りつかれた人を救うためであったということなのです。このことを教会に当てはめるならば、異邦人伝道へと向かう中で嵐に遭う、伝道の困難さを示しているとも言えるでしょう。伝道というのは、キリストの教会が復活のイエス様に命じられて、二千年の間、すべてのキリストの教会が為してきたことです。この伝道という業は、すんなり楽々と為されたことはありません。よく、現代の日本は伝道が困難だと言われます。しかし、何時の時代の、どこの国の伝道が困難ではなかったというのでしょうか。いつでも、どこでも、伝道は困難でした。その困難のただ中で、教会は、伝道者は、何度も「主よ、助けてください。」と叫んだ。そして、その叫びは祈りは聞かれ、今の教会があるのです。私共の教会の歩みもそうでした。困難はあります。自分の力ではどうにもならないような危機にも見舞われます。しかし、それでも大丈夫なのです。私共がイエス様と同じ舟に乗ったからです。私共がイエス様に従って、イエス様が乗っている舟に乗り込んだのなら、イエス様が必ず何とかしてくださるのです。
もし今、本当に辛い、大変な状況の中にある人がおられるなら、「主よ、助けてください。」と祈りましょう。主は必ず働いてくださって、私共の思ってもいない道を開いていってくださいます。困難な時、大変な時、私共が「主よ、助けてください。」と叫ぶならば、それは主が生きて働いておられることが明らかになる時、証しが立つ時なのです。
だから、安心して行きなさい。あなたが主と共にいるなら、主はあなたと共におられます。
[2017年9月10日]
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