1.神様の現臨の中で与えられた十戒
今朝は9月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。前回は出エジプト記の19章から御言葉を受けました。神様がシナイ山の頂に降って、雷鳴と稲妻、厚い雲、更に全山煙に包まれ、そして角笛が鳴り響くという、恐ろしいような光景がイスラエルの民の前に広がりました。この光景は神様が御臨在されたことを示しているわけですが、今朝与えられております十戒は、このような光景の中で神様が語られた言葉であるということを私共は覚えておかなければなりません。私共は、聖餐式がある主の日の礼拝には十戒を唱えることにしておりますけれど、それは20章1節「神はこれらすべての言葉を告げられた。」から始まっています。この「すべての言葉」というのは、2節から17節までの十戒の言葉ですけれど、誰が誰に向かって告げられたかと言いますと、この恐ろしいような光景の中で、神様御自身が全イスラエルに向かって告げられたということなのです。私共は十戒を唱える時に、この光景を心に描いて唱えなければならないと思います。
この言葉は、シナイ山に集められた全イスラエルに向かって、神様御自身が告げられた言葉なのです。今お読み致しました直後の所、19節には「モーセに言った。『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。』」とありますから、この言葉は、このまま聞き続けたら死んでしまいそうなほどに恐ろしく大きく、耳に頭に鳴り響くように、神様が天から直接イスラエルの民に語られた言葉であったということです。小さな部屋でボソボソ語られた言葉ではなかった。全イスラエルの人々の耳をつんざくように、頭に鳴り響くように、しっかり心に刻まれるように告げられた言葉でした。「神はこれらすべての言葉を語って言われた。」と唱える時、私共は、雷鳴が轟き、稲妻が走り、雲と煙が立ちこめる中、角笛が鳴り響く中、それよりも大きくはっきりと神様御自身が語られたということを思い起こさなければなりません。十戒とは、そのように神様御自身が直接、神の民にお語りになった特別な言葉だからです。単なる教えとか戒めとかではなくて、この言葉と共に神様御自身が神の民の上に臨まれたものなのです。神様の現臨の中で告げられた言葉なのです。
十戒の言葉はいつでも、この神様の現臨という恐るべき聖なる出来事へと私共を引き出すのです。神様が直接全イスラエルの民に語られた言葉は十戒だけでした。この十戒だけが石の板に刻まれました。そして、この石の板は契約の箱に収められ、神様が現臨される神殿の一番奥の至聖所に置かれたのです。十戒の言葉は、神様が直接イスラエルの民に臨まれ直接語られた出来事の記憶と共にあったからです。このことを私共はまずしっかり心に刻んでおきましょう。
2.第一の掟と第二の掟
イエス様は、律法の中でどの掟が最も重要でしょうかと問われて、マタイによる福音書22節37〜40節「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。つまり、神を愛することと隣人を愛すること、この二つに律法を集約されました。実は、律法の中心であります十戒もまた、神を愛することと隣人を愛することという二つのことを告げています。前半は神様との関わり、後半は人との関わりについてです。十戒は二枚の板に記されたものですが、どこまでが一枚目に書かれたのか、二枚目はどこから始まっているのか。これは結論の出ない議論ですけれど、二枚の板に記されたということからも分かるように、十戒は前半と後半に分けることが出来ます。この構造は主の祈りにおいても同じです。前半が神様についての祈り、後半が我らのための祈りとなっています。聖書の信仰は旧約から新約まで、神様との関係と人との関係、この二つを軸にして展開されているということです。どちらか一方ではありません。そして、イエス様が「第一の掟」と言われたように、神様との関係が根本にあって、人との関係が展開されていくのです。
3.十の言葉
今日は、2節の序文と3節の第一の戒を見ていきたいと思います。
さて、新共同訳の小見出しは「十戒」となっています。私共もこの箇所に記されている言葉を十戒と言い習わしております。しかし、聖書には十戒という言葉はありません。今朝お読みした所にもありません。出エジプト記34章28節に「そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。」とありますが、ここで「戒め」と訳されている言葉はただ「言葉」と訳されるべきもので、「戒め」としたのは意訳です。何が言いたいのかと申しますと、私共は十戒と言い習わすことによって、「こうしなければいけない戒め」としてこの言葉を受け取っているのではないかということです。それが本当に聖書が告げたいことなのかということです。
今日は十戒という言い方を変えようというのではありません。しかしこれは、「こうしなければいけない戒め」として受け取るのではなくて、神様が神の民に直接語られた言葉、愛の言葉なのです。私共が神の民として生きるように、神様との交わりの中に歩み続けることが出来るようにと招かれた、招きの言葉であるということなのです。戒めとして受け取りますと、この戒めを守って救われようという律法主義が頭をもたげてきます。しかし、この戒めを守って救われなさいとは、聖書は言っていないのです。それは序文を見れば分かります。
4.愛の言葉としての十戒
十戒は、2節「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」で始まります。私共の教会では、十戒を唱える時にこの言葉も唱えます。これは、十戒の序文とも言われますが、これが大切なのです。これを抜いてしまいますと、十戒はまさに十の戒めにしか聞こえないかもしれません。神様はイスラエルの民をこのシナイ山に導くまで、エジプトから脱出させるために十の災いを下し、海の奇跡を行い、マナを与えて、ここまで導いてきた。わたしがあなたがたをエジプトから、奴隷の状態から自由にしたんだよね。わたしがあなたがたを救ったんだよね。他の誰でもない、わたしがしたんだ。この神様の救いの御業というものが十戒の大前提なのです。この大前提を抜きにしてしまいますと、十戒は、何やら面倒な事を押し付ける、私共を縛り付ける言葉にしか聞こえないのではないかと思います。
正直申しますと、私は長い間、律法が好きになれませんでした。律法の中核にある十戒もそうでした。そもそも、私が育った教会の礼拝の中では、十戒を唱えるということさえありませんでした。しかし、牧師になりまして、この十戒が神様の愛の言葉、もっと言えば激しい愛の告白であることを知ってから、十戒も律法も一遍に好きになりました。おかしなもので、同じ言葉でも聞きようによって全く違った思いで受け止めるということが起きるのです。その鍵になるのが、十戒の序文と呼ばれる、この2節の言葉です。
この十戒を神様が全イスラエルの民にお語りになった時、イスラエルの民は既に神様の救いの御業を何度も経験していたのです。神様は当時世界最強であったエジプトを相手に、その全能の御力をもってイスラエルを奴隷の状態から救われました。その神様がイスラエルと契約を結び、19章5〜6節にありますように、「わたしの宝」「祭司の王国」「聖なる国民」とするために与えられたのが十の言葉、十戒なのです。
5.わたしとあなたの関係の中で
神様はここでイスラエルに対して「あなた」と呼びます。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」イスラエルは神様から「あなた」と呼ばれるのです。神様は、イスラエルとの関係は「わたし」と「あなた」の関係だと言われるのです。わたしとあなた、それは心と心、人格と人格が相対して生まれる関係でしょう。この関係においてしか契約は結ばれません。結婚を例にすると分かりやすいと思いますが、結婚は具体的なこの人と契約を結ぶ。女性なら或いは男性なら誰でもいいわけではない。私はあなたを愛する。私はあなたと結婚したい。一生、共に生きていきたい。そのようにお互いに思って結婚する。そして、神様の前で誓うのです。誓約において、「あなたは、この女性を妻とするか。」「あなたは、この男性を夫とするか。」と問う。神様は、「あなたは」と問うのです。その問いに対して、「私は誓います。」と誓う。洗礼も同じです。神様が、「あなたは信じるか。」と問う。これに対して、「私は信じます。」と答えるわけです。夫と妻は、わたしとあなたの関係です。そして、神様と私共の関係も、わたしとあなたの関係なのです。
6.十字架の言葉としての十戒
神様という言葉は一般名詞かもしれませんけれど、私共にとっては他の誰でもない「あなた」と呼ぶ神様です。私の神です。私の神は、私を造り、私のためにイエス様を与えてくださった神様です。私のために、その愛する独り子を十字架にお架けになった神様です。ですから私共は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という言葉を、「わたしは主、あなたの神、あなたを罪の奴隷から救い出した神、あなたのために愛する我が子を十字架に架けた神。」そう読むのです。そう読むと、この十戒もまた十字架の言葉となります。イエス様が十字架の上から私共に語りかけてくる言葉となります。最初に、この十戒は恐ろしいような神様の現臨のもとで与えられたと申しました。それと同時に、この十戒は十字架の言葉として、イエス様が私共にお語りになっている言葉として聞くのです。何故なら、旧約においてイスラエルに恐ろしいような光景の中で現臨された神様は、イエス・キリストとして私共の上に現臨されるからです。
7.第一戒
十戒の第一の言葉は、3節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。この第一の戒が決定的に重要です。これに続く九つの言葉、九つの戒は、すべてこの第一の言葉の展開だと言って良いほどです。
これは、今見てきた序文と強く結びついています。序文と切り離しては、何を言っているのか分かりませんし、愛の言葉として聞くことは出来ないでしょう。ある人は、この序文と第一の戒の間に、「だから」を補って読むと良いと言います。その通りだと思います。「わたしはあなたをエジプトから救い出したでしょう。だから、あなたにはわたしのほかに神がいるはずがない。」そう言っているということです。
この第一の戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と訳されています。これは禁止とも読めるのですが、原文は未来形の否定で記されています。「あなたは○○しない」と言っているのです。ですからここは、「あなたは、わたし以外のものを神とはしない。」ということなのです。「してはならない」「あってはならない」という訳ですと、戒めにしか聞こえません。けれど、「しない」なのです。そんなことをすれば、自分を愛してくれた方、自分を救ってくれた方を裏切ることになる。「あなたはそんなことはしない。」そう神様は告げられたのです。
本当にそうです。イエス様の十字架によって救われたということを知った者は、どうして「イエス様なんて関係ない。」と言って生きることが出来るでしょう。この方との愛の交わりの中に生きたいと心から願うでしょう。この愛の交わりへの招き、わたしとの愛の交わりの中に生きるようにとの切なる神様の思いが、この十戒の第一の言葉なのです。戒めというよりも、私共への愛の告白に聞こえないでしょうか。
この第一の戒の中で「わたしをおいて」と訳されている言葉は、訳しにくいのですが直訳すると「我が顔の前に」となります。つまり、私共がほかの神を拝むかどうか、そういうことはすべて「神様の顔の前」にあることであって、すべてを神様は御存知なのだということです。浮気をしたってわたしはちゃんと見ているから、ということになりましょうか。私共が、私を救ってくださった神様以外を神とせず、ただ神様だけを神とするということは、実に「神様の顔の前」でのことだということです。ここで思い起こしますことは、宗教改革者カルヴァンは、「神の御前で(コーラム・デオ)」ということを大切にしたということです。これは、この十戒の第一の言葉に生きる者の姿を何より大切にしたということでしょう。
8.神様との愛の交わりに生きる
しかし、そうは言っても、私共は弱いので罪を犯してしまうではないか。それが私共の現実ではないか。そう思う方もおられるでしょう。確かに、私共は罪を犯すのです。神様を神様とする、神様との愛の交わりに生きる、神様の御前に生きるということは、全く罪を犯さない者になるとか、罪を犯さないように生きられるということではありません。そうではなくて、自らの罪を知らされ、そこから悔い改めて新しく生き直すということです。何度でも何度でもです。イエス様は七の七十倍でも赦すようにと告げられました。そのように告げられた方が、もう赦さないなんてことはあり得ないのです。旧約の歴史は、イスラエルの裏切りの歴史です。神様はイスラエルを懲らしめたり、諭したりされましたが、イスラエルを見捨てることはされませんでした。その神様の愛が、イエス様というお方によって私共に示されました。
神様の御手の中にある明日を神様に委ねるよりも、自分の見通しや自分の思いを大切にしてしまうような私共です。でも、思ったようにはいかない。そこで気付くのです。私の明日は神様の御手の中にあったのだ。だから、今やるべきことを、やれるように、精一杯やるだけ。後は神様が何とかしてくださる。この十戒を神様の言葉として受け取る者、神の御前に生きる者は、傍から見れば能天気にしか見えない、この安心の中に生きる者とされているのではないでしょうか。神様との交わりに生きるとはそういうことです。「神様だけを神としなければいけない。」ではないのです。神様との愛の交わりに生きる。それがすべてです。神様は私を愛してくださった。愛してくださっている。そして、これからも愛してくださる。だから私も神様を愛して、神様を信頼して、神様に従っていこう。明日のことを思いわずらうことなく、安心して、神様の御手に委ねよう。神様が何とかしてくださる。今までもそうだった。今もそうだ。こうなったらどうしよう。ああなったらどうしよう。そんなふうに私共は思ったりしますけれど、別にもどうにもなりはしません。ああなったとしても、こうなったとしても、私共を愛してやまない神様が、私のために備えてくださった今日が、明日があるだけです。だから、大丈夫です。たとえ死んだとしても、大丈夫。復活の主の御手の中にあるのですから。
[2017年9月24日]
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