富山鹿島町教会

礼拝説教

「疲れた者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
詩編 34編2〜23節
マタイによる福音書 11章25〜30節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の招きの言葉
 今朝イエス様は私共にこう語りかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」何と優しい招きの言葉でしょう。この言葉は、教会の案内板などにもよく記される言葉です。人は皆、それぞれの歩みの中で様々な重荷を負っています。何の重荷も負っていない、そんな人は一人もいないでしょう。若者は若者なりの、年老いた者は年老いた者なりの重荷があります。進学のこと、就職のこと、職場での人間関係、将来のこと、恋人のことなど、若者には若者なりの不安があり、苦しみがあります。また年老いた者には、自分の体の痛みや健康のこと、家族のこと、介護のことなどもありましょう。私共が背負っている重荷には、人には言えないものもあるでしょうし、傍から見ても明らかな重荷もあるでしょう。その重荷は、人それぞれ違います。同じように見えても、それぞれ置かれている状況や立場が違いますので、それはそれぞれ違っており、なかなか人には分かってもらえないということもあるでしょう。誰もが重荷を負い、多少なりとも疲れを覚えている。それが私共の現実でしょう。ですから、この「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とのイエス様の御言葉は、すべての人に向けられている招きの言葉です。イエス様は、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われる。休むことが出来たら、どんなに楽だろうか。そう思う。イエス様は「わたしのもとに来なさい。」と招かれます。そうすれば休めると言われる。どうすれば、私共はイエス様の所に行けるのでしょうか。どうすれば、私共は休めるのでしょうか。
 ここで極端に、もうこの地上での歩みをやめて、いっそ死んでしまって、イエス様がおられる天国に行けば休めるだろう、そのようにこの言葉を受け取ってはいけません。疲れ果てて、何もやる気が起きず、そんな風に思ってしまう時がないとは言いません。しかし、イエス様が私共を休ませようと招いておられるのは、そのような意味ではないのです。確かに、私共の命はこの地上の生涯では終わらない。この地上の生涯が閉じられたなら、天の父なる神様の御許に行って永遠の休息が与えられる。それも恵みとして私共に備えられていることです。しかし、イエス様がこの言葉で私共を招かれるのは、そういうことではありません。そうではなくて、重荷を負って歩み続けている私共が、疲れた心と体とを休ませて、再び元気に歩み出すことが出来るようにしてあげよう。そういう招きです。
 イエス様は私共を休ませてくださるのです。イエス様の所に行けば私共は休むことが出来る。心も体も疲れ果て、もうどうなってもいいやというような投げやりな思いから私共を解き放ち、もう一度、元気とやる気を与えて、新しく歩み出すことが出来るようにしてあげよう、と告げておられます。

2.わたしの軛を負いなさい
 イエス様はこの招きの言葉に続けて、こう言われるのです。29〜30節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」不思議な言葉です。イエス様は「休ませてあげよう。」と言われた。しかし、それに続く言葉は、「すべての重荷を下ろしてゆっくりしなさい。」ではなくて、「わたしの軛を負いなさい。」と言われるのです。自分が負っている重荷に、さらに新しい荷物を加えられるかのような印象を受ける方もおられるかもしれません。自分が今負っている重荷に加えて、イエス様の軛を担う。これでは休むどころではない。重荷に押しつぶされて、倒れてしまうではないか。そのように思われる方もおられるかもしれません。勿論、イエス様はその様な意味でこの言葉を語られたのではありません。
 軛というのは、二頭の牛に荷車を引かせる時に、その二頭がバラバラに動くことがないように、牛の首の所に木で枠を作ってくくりつけて、二頭が一緒に動くようにする道具です。この軛をつけられる牛は、一方はベテラン、もう一方は新人、経験の浅い牛だそうです。つまり、ここでイエス様が「わたしの軛を負いなさい。」と言われているのは、イエス様と一つにされて歩む者とされるということ、イエス様と同じように生きる者とされるということ、そして、イエス様が私共の重荷を共に負ってくださるということなのです。私共は自分一人で重荷を負っているかのように考えがちですけれど、そうではない。イエス様が共に私共の重荷を負ってくださるのです。

3.嫌々担う?
 どうして、イエス様の軛を負うならば休むことになるのでしょうか。安らぎを得ることになるのでしょうか。それは、私共が重荷を負って疲れてしまうのは、その重荷が、誰かに強いられて、嫌々負わされている重荷だからでしょう。強いられて負っているから、嫌だと思うし、疲れてしまう。しかし、同じ重荷でも、嫌々負わされているものでないのなら、自分から進んで負っている重荷ならば、そんなに疲れないでしょう。
 例えば、今、2018年サッカー・ワールドカップが開かれています。そこに出場している選手たちは、それこそ血のにじむような努力を積み重ねてきた人たちです。人の何倍も努力してきた人たちです。嫌々努力するような人は、多分、あの場に立っていないのだと思います。好きだからやってきた。もっと上手になりたいと思ったから努力してきた。そういう人たちなのだと思います。誰かに命令されて嫌々やっていたならば、途中でやめてしまっていたでしょう。しかし、彼らはやり続けた。それは、誰かに命じられてやっているのではないからです。
 私は時々、妻とこんな話をするのです。主の日の夜などに「今日も一日よく頑張った。よくまあ疲れないものだ、自分を誉めてあげたい。」と私が妻に言いますと、妻は「だって、あなたは誰かに言われて、嫌々やっている仕事なんてないじゃない。自分で決めてやっているんでしょ。あなたが同じ事を、例えば副牧師にやらせたら、完全にブラック牧師よ。」なるほどと思いました。嫌々やっているわけじゃない。確かにそうです。毎週の説教にしても、集会にしても、病気の方の問安にしても、嫌々やっているものは一つも無い。だから疲れないのか。なるほどと思います。もっともそうは言っても、年齢と共に肉体は少々疲れてしまうことがあります。しかし、そんな時は眠ればいいだけのことです。
 イエス様が「わたしの軛を負いなさい。」と言われたのは、実にこのことなのです。私共が重荷と思って嫌々負っているもの、それをイエス様が一緒に負ってくださることによって、その重荷が実は「イエス様の重荷」であることに気付く。私が負っている自分の体の不調という重荷も、介護の重荷も、家族の心配事も、イエス様が私に与えられた重荷であることが分かる。そうすると、この重荷を負うことによって、私共はイエス様の愛を受け止めるということになる。例えば、思うように体が動かなくなる。これは本当に辛いことでしょう。しかし、その辛さの中で、イエス様が私と一つになってくださっているということを知る。それはイエス様の十字架を間近に受け止めることが出来るようになるということです。それは嫌々負うのではなくて、神様の愛、イエス様の愛の道具として負うべき重荷になるということです。私共の人生は、自分が面白おかしく楽しむためにあるのではなくて、神様の御心、神様の愛に仕え、神様の愛を現す者として歩むためにある。そのことが分かれば分かるほど、今、自分の負っている重荷には意味があることが分かってくる。確かに、重荷そのものが無くなるということではないかもしれません。しかし、それに意味があることが分かれば、担うのは嫌々ではなくなり、力も出てくるでしょう。

4.あるキリスト者の証し
 以前、私の神学校の同期の牧師から、こんな話を聞いたことがあります。彼は大学を出て、老人の福祉施設に勤めました。毎日、彼は入所している人たちの下の世話をしなければなりません。正直なところ、本当に嫌になったそうです。どうして、毎日こんなことばかりしなければならないのか。そう思ったそうです。彼はキリスト者でした。彼が主の日の礼拝に集うと、牧師が説教の中で、イエス様は自分のために何をしてくださったか、この愛に応えるために、このイエス様に倣って愛に生きよと告げられる。そこで、「ああ、そうだ。自分はイエス様の弟子として、下の世話をしよう。」そう思って、新しい一週間の歩みへと出て行ったというのです。まさに、これが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ということなのでしょう。
 彼は、「重荷を負い、疲れ果てた教会会員が、その重い体を引きずって主の礼拝に集う。その一人ひとりが、イエス様の御言葉を受けて、神様の子・僕として新しくそこから歩み出していける。そういう牧師になりたい。」そう言っていました。本当にそうだと思いました。

5.イエス様の言葉だから
 ここで大切なことは、イエス様が何度も「わたし」と繰り返しておられることです。「わたしのもとに来なさい」「わたしは柔和で謙遜な者」「わたしの軛を負い」「わたしに学びなさい」「わたしの軛は負いやすく」「わたしの荷は軽い」。つまり、「わたし」であるイエス様というお方を除いては、この言葉は全く成り立たないということなのです。私共は、イエス様の許に来て、イエス様の軛を負って、イエス様に学ぶのです。イエス様は柔和で謙遜な方であり、イエス様の軛は負いやすく、イエス様の荷は軽いからです。私共は、このイエス様の言葉が真実であることを知っています。何故なら、イエス様は私共のために十字架にお架かりになったからです。私共のために命を捨てられた方が、それほどまでに私共を愛してくださるお方が、ダメになってしまうような重荷を私共に負わせるはずがないのです。イエス様が、重荷を負ってあえいでいる私と共に、同じ重荷を負ってあえいでくださる。そして、私共に告げる。「大丈夫。わたしは三日目に復活した。肉体の死さえも、あなたを潰すことは出来ない。わたしが共にいる。あなたは自分の力で、自分の努力で何とかしようとしているかもしれない。その努力は大切なことだ。でも、わたしが共にいて、わたしが支え、守り、導き、力を与え続けていることを忘れないように。わたしがいるから、あなたは決して潰れない。そんなことは誰にもさせはしない。だから安心して、今日やれることを、精一杯やりなさい。それで十分。明日のことは、また明日にしよう。5年後、10年後、20年後、そんな先のことを心配しなくて良い。わたしが共にいる。大丈夫。」そのようにイエス様は私共に語り続けてくださるのです。
 このイエス様の言葉は、イエス様と切り離した所では成り立たないと申しました。それはこういうことです。イエス様は「わたしの軛を負いなさい。」と言われました。これは、イエス様と一つにされて、イエス様に従って生きるということですけれど、これがイエス様以外だとどうなるのか。
 金曜日に、私は刑務所で集団教誨をしてきました。聖書研究クラブというクラブ活動の指導ですが、最近は少し増えて5人くらいの受刑者に聖書の話をしています。そこで、ちょうどオウム真理教の麻原教祖が死刑になった日でしたので、「イエス様に従うということは、麻原に従うということとどう違うのか。」という質問を受けました。「なかなか良い質問ですね。」と言いながら、どう答えようかと考えました。そして、こう答えました。「確かに、キリスト教ではイエス様に従うということが救いへの道として大切な点です。しかし、一番大切なのは、誰に従うかという点なのです。イエス様以外の誰に従っても、或いは、イエス様の生まれ変わりと称する人に従っても、それは全く救いに至りません。何故なら、イエス様以外に、私共を愛して十字架にお架かりになった方はいませんし、三日目に復活された方はいないからです。また、イエス様以外に、私と一つになって歩んでくださる方はいないからです。もし、イエス様以外の者が、このイエス様の言葉を語るならば、それは悪魔の誘いとなるでしょう。」そう答えました。

6.ただ恵みの選びによって
 ここで、イエス様がこの招きの言葉を告げる前に言われたことを見てみましょう。27節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」ここでイエス様は、父なる神様だけがわたしのことを知っていると言われました。つまり、イエス様が誰であり、何のためにこの世に来られたのか、そのことをちゃんと知っているのは父なる神様だけだと言われたのです。そして、「子(=イエス様)と、子が示そうと思う者」だけが父なる神様の御心、つまり神様がどれほどの力を持ち、どれほど私共を愛しておられるのか、神様は何のために独り子であるイエス様をこの世に送られたのか、そのことを知ると言われるのです。
 これは、イエス様と父なる神様の一体性を告げると共に、私共はただイエス様によって選ばれ、私共を救おうとされる御心によって神様を知る者となった。信仰を与えられたということです。私共の知恵や修業や心の清さといったもので信仰を与えられたのではありません。ただイエス様の選びによって、ただ神様の恵みによって信仰を与えられ、救われたということです。このことは、更にその前の25〜26節において、「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」と記されていることによって明らかです。私共は賢い者ではなく、知恵ある者でもなく、幼子のような者です。幼子のような者とは、幼子のように純真な者という意味では全くありません。新約聖書で「幼子」という言葉が出てきたら、それは「何も出来ない、能力のない、力のない者」という意味です。そのような私共に信仰が与えられ、神様との交わりを与えられ、新しい命に生きる者とされた。何とありがたいことでしょう。
 私共は実に、神様の選びの恵みによって信仰を与えられ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエス様の言葉を、私に告げられた言葉として聞く者とされました。信仰が与えられていなければ、このイエス様の言葉が、自分に向けられた言葉、私への語りかけとして聞き取ることは出来ません。
 イエス様が、私と軛を一つにされ、私と共に歩んでくださっている。そして、人生の重荷を一つ負う度毎に、本当に神様が生きて働いていてくださっていることを知らされ、イエス様の愛と恵みと真実を学ぶ。そして、安んじて神様が与えてくださった人生を歩む者とされている。本当にありがたいことです。この恵みに感謝しつつ、与えられた場において、軽やかに重荷を担いつつ、この一週もまた、御国に向かって歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2018年7月8日]

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