富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしの誇りはイエス・キリスト」
創世記 17章9〜14節
フィリピの信徒への手紙 3章1〜11節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の救いに与る前のパウロ
 使徒パウロは復活のイエス様に出会って、文字通り生まれ変わってしまいました。生きる意味も目的も喜びもそして誇りも、すべてが変わってしまったのです。イエス様の救いに与るということは、そのような変化を私共にもたらします。それは表面的な変化ではなく、根源的な変化です。この変化を最もはっきり示している聖書の箇所の一つが、今朝与えられておりますフィリピの信徒への手紙3章1節以下の所です。
 イエス様に出会う前のパウロはどんな人だったのか、彼自身このように記しています。5〜6節「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」彼は誇り高きユダヤ人だったのです。生まれも育ちも生粋のユダヤ人。「生まれて八日目に割礼を受け」とありますから、両親もユダヤ人だったはずです。「ベニヤミン族の出身」というのですから、家系図もしっかり持っているような家に生まれたのでしょう。そして、ファリサイ派に属し、熱心に律法を守ることによって救いに与ると信じ、実際にそのような生活をしていた。「律法の義については非のうちどころのない者」とまで言っていますから、律法を守って日々生活するという点においては完璧に行っていた人でした。しかも、その熱心さはキリスト者を迫害するほどでした。自分たちこそは正しい者、神様に選ばれた神の民、神様の救いに与る者、その自信と確信は少しも揺るがない人でした。律法学者、ファリサイ派、祭司、長老といった人々がイエス様を十字架に架けて殺したように、パウロもまた、律法を守ることによって救われるという正しいユダヤ教を守るために、イエス様の十字架と復活によって救われると教えるキリスト者たちを、神様に逆らう、神の敵と見なして迫害していたのです。彼は骨の髄までユダヤ人でした。

2.パウロの回心
 しかし、変わりました。変えられてしまいました。その時の様子が使徒言行録9章に記されております。パウロは、キリスト者を見つけ出して捕らえ、縛り上げてエルサレムに連行するためにダマスコという町に向かっていました。ところがダマスコに近づいた時、突然、天からの光に照らされます。パウロ(当時はサウロと呼ばれていました)は地に倒れてしまいます。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」という声を聞くのです。サウロが「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えがありました。サウロは起き上がりましたが目が見えなくなり、三日間何も食べず何も飲まず、祈っていました。
 さて、ダマスコの町にアナニアというキリスト者がいました。そのアナニアに、サウロの所へ行って目を開いてやるように、と主が告げます。アナニアは、彼はキリスト者を迫害している者ですと言うのですが、主は「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と告げます。そこでアナニアはサウロの所に行き、サウロの上に手を置いて、「主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになった。」と言うと、サウロの目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになりました。これが「目からうろこ」という言葉の語源です。そして、サウロは洗礼を受け、「イエス様こそ神の子である」と宣べ伝え始めたのです。サウロはダマスコに行くときはキリスト者を迫害する者でした。しかし、ダマスコから出る時には、イエス様を神の御子と宣べ伝える者に変えられていたのです。
サウロは、実に劇的なイエス様との出会いを与えられ、キリスト者を迫害する者から「イエス様こそ神の子である」と宣べ伝える者に変えられてしまったのです。彼はイエス様を信じるために何かをしたわけではありません。それどころか、キリスト者を迫害する者でした。しかし、イエス様が声を掛け、目を見えなくし、悔い改めさせ、イエス様を宣べ伝える者としたのです。この救いの体験は、彼に決定的なあり方で福音を学ばせました。それは、ただ神様・イエス様の一方的な恵み、一方的な選びによって救われるというものでした。これが福音です。確かに私共は、パウロのような劇的な出会いを与えられたのではないかもしれません。しかし、イエス様と出会って、目からうろこが落ち、イエス様こそ神の子であると知った。そして、洗礼を受けた。そこで起きた変化、その時から起き続けている変化は、パウロの上に起きたことと少しも違いません。

3.イエス様だけを誇りとする
 私共はユダヤ人ではありません。私は日本人です。私の中には、イエス様に救われる前のパウロのように、自分はこれほどの者だと言って誇れるものがあるわけではありません。私は栃木県の矢板という町に生まれ育った。その町で15代続く家に生まれた生粋の日本人です。私はイエス様に出会うまで、学歴を付けて大きな会社に入って社会的に成功することを目指していました。そして、それを得ようと真面目に生きていました。それは、それ以外の生き方を知らなかったからです。そのような目に見えるものを頼りとする、誇りとする生き方しか知らなかったのです。サウロもそうだったのだと思います。ユダヤ人の家に生まれ、生粋のユダヤ人として育った彼にとって、ファリサイ派として生きることが最も正しい生き方だった。彼は真面目に、周りから期待される人間像に近づくために歩んでいた。そして、キリスト者を捕らえて縛り上げることが、一番正しいことだと思っていたのです。親も社会も、それが一番正しい、良いことだとしていたからです。私もそうだったと思います。親が期待し、社会にも認められる、そのような人間になろうと、幼い時から真面目に生きてきた。良いも悪いも、それしかなかった。それしか知らなかったのです。それは自分が誇り、自分が頼れるものを手に入れるという生き方でした。しかし、イエス様に出会って変えられてしまいました。自分が手に入れた何かを頼りとするのではなく、イエス様を頼りとする。自分を誇りとするのではなく、イエス様を誇りとする。そのような者に変えられた。
 自分が持つ何かを誇る者は、それを持たない者を見下します。或いは、それを持たない者を異質な者として排除しようとします。サウロがキリスト者を迫害したのもそういうことでしょう。現在の日本には、日本人であることを誇りとするようにという言葉があふれています。そして、日本古来の風習、習慣を大切にするようにと言います。それが悪いことだとは思いません。しかし、そのような考えや生き方が、日本人は偉い、日本人は素晴らしいとなりますと、私は正直な所、違和感を覚えるのです。私は日本人です。国際試合で日本人が勝てば嬉しいし、演歌を歌えば気持ちが良い。パンよりご飯の方が好きです。それは単なる事実であって、特別誇ることでもないし、頼りにすることでもないと思います。まして、日本人ではない人を見下すようなことでは全くない。それは家系であれ、学歴であれ、職業であれ、同じことでしょう。

4.イエス様の祝福の中に生きる幸い
マタイによる福音書5章の山上の説教、それはイエス様の祝福の言葉で始まっています。その最初にある祝福の言葉は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」です。「心の貧しい人々」というのは、私共が日常で使う「心の貧しい人」というのとは、全く意味が違います。日常において、私共は「あの人は心の貧しい人だ。自分のことしか考えられない人だ。」というように使うでしょう。しかし、ここでイエス様が「心の貧しい人」と言われたのは、自分の中に頼るべきもの、誇るべきものが何もない人ということです。自分の中に頼りとなるもの、誇りとするものが何もない人、それがどうして幸いなのか。それは幸いどころか、不幸そのものではないか。確かに、自分の中に頼るべきもの、誇るべきものが何もないということは、肉体的にも経済的にも社会的にも弱い者ということでしょう。それは少しも幸いなことではありません。しかし、イエス様は「幸いだ」と言われる。それは、その何も誇るべきものを持たない人々が、この時イエス様の所に来たからです。イエス様を頼って来たからです。だから、イエス様は「あなたがたは幸いだね。」と言われたのです。「わたしの所に来たから、わたしがあなたの頼りとするものになる。わたしがあなたの誇りとなる。わたしがあなたのために天の国を備える。安心しなさい。あなたがたは幸いだ。」そうイエス様は言われたのです。
このイエス様を頼りとし、イエス様を誇りとする者は、その期待を裏切られることはありません。必ず幸いになる。天地を造られたただ独りの神の御子が、その全能の御力を用いて幸いにしてくださるからです。天の国に招いてくださるからです。だからパウロは、フィリピの信徒への手紙3章1節で、「主において喜びなさい。」と言うのです。パウロは「喜びなさい」という言葉を、その手紙の中で何度も何度も言っています。それは、うれしくもなく、特に良いことがなくても、悲しくても、どんな時でも無理してでも「喜べ」ということではありません。パウロが「喜びなさい」と言うのは、「主において喜びなさい」です。主の中で、主につながって、主と一つとされて「喜びなさい」というのです。それはイエス様が「心の貧しい人々は、幸いである。」と告げられた、そのイエス様の祝福の中にあなたは既にいるのだから、天の国は既にあなたのために備えられているのだから、本当に幸いだ。これを喜ばずして何を喜ぶというのか。そうパウロは告げているのです。
 パウロは自分では喜んでいないけれども、人に対しては「喜べ。」と言っていたということではないでしょう。彼は喜んでいた。いつも喜んでいた。だから、人に対しても「喜べ。」と言ったのです。彼の伝道者としての歩みは、とてもいつも喜んでいられるようなものではありませんでした。町でイエス様の福音を宣べ伝えれば石をもって追われる。逃げるようにして次の町に行って、そこでもイエス様の福音を宣べ伝える。そうすると、前の町から追ってきた人たちに、その町からも追われる。そんなことの連続でした。しかし、彼は喜んでいました。イエス様が共にいてくださり、道を開いてくださり、イエス様の福音を宣べ伝えるという栄光に満ちた務めに用いてくださったからです。イエス様の祝福に既に与っていたからです。このイエス様の与える祝福を奪うことは、誰にも出来ません。
 私共が頼りとしているもの、私共が誇りとしているものは、やがて失われていきます。健康も美貌も富も頭の良さも仕事上の能力も、やがては失われていく。しかし、失われないものがある。それが、イエス様の祝福であり、イエス様の愛であり、天の国です。私共はこれを頼りとし、これを誇りとする者とされました。イエス・キリストを誇りとするとは、この方を頼りとし、この方に愛されていることを喜び、この方によって備えられている天の国を希望として生きるということです。ここに、何ものによっても奪われることのない、まことの幸いがあります。
パウロは、熱心なユダヤ教徒から、イエス様の福音を宣べ伝える者となりました。ユダヤ人社会からは裏切り者と呼ばれたことでしょう。それはパウロにとって辛いことだったに違いありません。しかし、彼は喜んでいました。イエス様の祝福の中にいたからです。私共もそうなのです。目に見える何を失っても、自分が頼りとしていた、自分が誇りとしていた何を失ったとしても、それでも失われないものがある。イエス様の祝福であり、イエス様の愛であり、天の国の希望です。私共は何と幸いな者でありましょう。

5.主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ
 パウロはこう言います。7〜8節「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」自分が生粋のユダヤ人として生まれ育ち、それまで誇りとしていたものを、今では損失と見なすようになったと言うのです。それらをすべて失ったけれど、それは「塵あくた」だと言うのです。口語訳では「糞土」となっていました。パウロはイエス様の救いに与って、自分が頼りにしていた、誇りとしていたものが、何の意味もない、何の役にも立たないものであることがはっきり分かったからです。ただイエス様の憐れみだけが、ただイエス様の十字架だけが私を救い、私を生かし、私を天の国へと導いてくださる、そのことがはっきり分かったからです。
パウロはそのことが分かったので、本当に変わってしまいました。もちろん、彼の性格などはそうそう変わらなかったでしょう。今日与えられた御言葉におけるパウロの言葉遣いなどは相当激しいものです。パウロはイエス様に救われる前も後も、性格としては激しい人だったのだと思います。私共も、キリスト者となったからといって、性格が変わるというようなことはあまりないと思います。しかし、生きる意味も目的も喜びも変わったはずです。私共の一日一日は御国に向かっての歩みであることを知り、イエス様と共にあること、イエス様の御言葉に従うことを喜びとするようになりました。人からの称賛も、富さえも、心引かれるものではなくなりました。イエス・キリストを知ること、それはイエス様を愛し、イエス様に愛されていることを知ることですが、その素晴らしさをいよいよ味わい知ることが何よりの喜びとなりました。イエス様の救いの御業が前進することを何より願い求める者になりました。そのために、私共自身を、また私共に与えられている時間、能力、富を用いていただくことを喜びとする者になりました。主の日に愛する兄弟姉妹と共に御名をほめたたえることを楽しみとする者になりました。それは、私共がこの地上に生きていながら天の国に生き始めているからなのでしょう。天の国は既にここに始まっています。

6.祝福を受けた者として
 礼拝の最後に、私共はいつも祝福を受けます。私共は祝福を受けた者として、ここから出て行く。多くの教会ではこれを「祝祷」と呼んでいますけれど、これは「祈り」ではありません。神様に祝福を求めて祈っているのではないのです。イエス様が「幸いなるかな」「幸いだ」と告げられた、あの祝福と同じです。祝福というものは、あったらいいね、ありますようにと祈るのではなくて、宣言なのです。そう宣言されたら、それはあるのです。私共は祝福を受けた者、祝福に与った者、祝福に包まれた者として、ここから出て行くのです。イエス・キリストだけを誇りとする者とされ、その者にだけ与えられる失われることのない祝福に与った者として出て行くのです。既に神の国に生き始めた者として出て行くのです。
大丈夫。主の祝福はあなたを捕らえて離しません。主と共に、主の平安の中を行きなさい。

[2018年9月23日]

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