1.使徒パウロ
今朝は、使徒パウロが記したコロサイの信徒への手紙1章24節以下から御言葉を受けてまいります。この手紙を記しました使徒パウロ、彼は誰よりも主イエス・キリストの福音を明確に教え、伝えました。それは新約聖書に「ローマの信徒への手紙」から「フィレモンへの手紙」まで、彼が記した手紙が13も残されていることからも分かります。また、使徒言行録の後半は、ほとんどパウロの伝道記録と言ってもいいほどです。生まれたばかりの初代キリスト教会において、彼ほど伝道した者はおりませんし、彼ほどその伝えるべき福音の内容を明確に弁えていた者もおりません。
しかしパウロは、イエス様の最初の弟子である十二使徒のメンバーではありませんでした。イエス様が十字架に架けられ、そして復活された後で弟子とされました。そのいきさつについては使徒言行録9章に記されています。
パウロは、キリスト者を捕らえてエルサレムに連行するためにダマスコに行きます。ところが、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光に照らされ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」と呼びかける声を聞きました。パウロが「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えがありました。彼は三日間、目が見えず、何も食べず、何も飲みませんでした。自分が迫害していたキリスト者たち、彼らが「我が主、我が神」と信じる、あのイエスが自分に現れた。イエスはもうとっくに十字架の上で死んだはずではなかったか。彼は目が見えないまま、三日間飲まず食わずで、自分に起きたことが一体どういうことなのか考え、思い悩み、苦悩したことでしょう。もし、キリスト者たちが信じているように、本当に神の御子であったならば、自分は神様に対して真っ向から反逆し、敵対していたことになります。それは本当に恐ろしいことでした。そして三日の後、アナニアというキリスト者がパウロを訪ねて来ます。アナニアはパウロの上に手を置き、こう言ったのです。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、パウロの目からうろこのようなものが落ち、パウロは元どおり見えるようになりました。もう疑う余地はありません。パウロはイエス様の力を、神の御子の力を、身をもって知らされたのです。彼は洗礼を受けてキリスト者となりました。そして、「イエス・キリストこそ神の子である。」と宣べ伝える者となったのです。
パウロは、タルソという町のユダヤ人の両親のもとに生まれ、若くして律法を学ぶためにエルサレムに行き、そこでファリサイ派の一人となった人です。イエス様の弟子で最初に殉教したステファノが石で打たれる時、彼はその場にいました。彼は、律法に従う者のみが清い神の民であり、神様に救っていただけるのだと信じ、ファリサイ派として、キリスト者を迫害するほどまでに熱心に、ファリサイ派の教えの通りに生きてきたのです。ところが、あのダマスコ途上のイエス様との出会いによって、すべてが変えられてしまいました。生きる目的も、為すべきことも、希望も、喜びも、正義も、誇りも、全て変えられてしまいました。そして彼は、この時からキリストによって全く生まれ変わった者として生きました。
使徒パウロの手紙は、この全く生まれ変わった者によって記された手紙なのです。キリストによって生まれ変わった者が記したということを抜きにしては、パウロの手紙は、何を言っているかさっぱり分からないでしょう。しかし、このことさえきちんと弁えているならば、パウロの手紙は、難しいことを言っているわけではありません。順に見ていきましょう。
2.苦しむことを喜ぶ
24〜25節「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」とあります。彼はいきなり、「あなたがたのために苦しむことを喜びとし」と言います。苦しむことを喜ぶ。不可解な言い方です。苦しむこと自体を喜ぶ人は誰もいないでしょう。苦しむことを喜ぶというのは、その苦しみを通して達成されることがあるからです。その苦しみに意味があることが分かっているからです。その意味とは、キリストの教会が、キリストの体なる教会として立っていくということです。その為に苦しむことだから、パウロは喜ぶことが出来たのです。
彼はキリストの福音を伝えるために召し出され、その務めに仕えるためだけに生きました。彼は、キリストを知らない人々の所に行って福音を伝える伝道をしました。イエス・キリストと言っても誰のことなのか聞いたこともない、そのような人々に福音を伝えました。彼の言葉を聞いた人々が続々とイエス様を信じて救われたということではなかったと思います。しかし、その営みの中で一人また一人とキリストを信じる者が起こされていった。そして、キリストを信じる者たちの群れであるキリストの教会が建てられていった。それは本当に驚くべき出来事でした。
しかし、彼の伝道はそれで終わりではありませんでした。それで終わったならば、これほど多くの手紙は残らなかったでしょう。キリストの福音によって救われた者、イエス・キリストを信じる者が起こされた。しかし、そのような者たちの群れである教会が、キリストの体と言われるにふさわしいものにすぐになっていったわけではありませんでした。キリスト者が、キリストの教会が、キリストの救いに与った者としてふさわしいものになっていく、そのために彼は教え、訓練していかなければなりませんでした。そのために、彼はこれほど多くの手紙を残すことになったのです。伝道と牧会は一つのことです。イエス様の福音によって救われた者たちが、その恵みに応えて、ふさわしい者に変えられていくように導いていく。それは苦労の多い営みでした。それが、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」という営みだったのです。これは、私共の救いがキリストの十字架の苦しみだけでは不十分であるので、その分を補っていくということではありません。私共の救いは、イエス様の十字架によって完全になされました。しかし、この地上にある限り、キリスト者もキリストの教会も欠けがあるのです。その欠けを弁えて、御心に適った教会、キリストの福音が正しく伝えられ、キリストの愛が満ち、キリストの命にあふれている教会、そこに身を置けば神様の愛が分かる教会、自らの罪と戦い、一点の曇りもないキリストの体なる教会になっていくために、パウロは労苦しました。そして、それは喜びでした。
地上の教会には欠けがあります。完全な教会なんて地上にはありません。だから、何とかして御心に適う教会へと歩み続ける。そのために苦しむならそれは喜びだとパウロは言うのです。それは、自分が仕えている業がどんなに栄光に満ちたことであるか、彼は知っていたからです。私共がこのように、主の日のたびごとに礼拝に集っている。イエス様を「我が主、我が神」と拝み、天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼んで祈っている。それがどんなに驚くべきこと、栄光に満ちたことであるか。そのことが少しでも分かれば、私共もまた、パウロのように、キリストの体である教会のために労苦することを少しもいとわない者になるのでしょう。
3.秘められた計画
続いてパウロは26〜27節「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」と言います。ここでパウロは「秘められた計画」と繰り返し語ります。この言葉は、ギリシャ語の本文ではミステイオン、英語のミステリーという言葉です。口語訳では「奥義」と訳されておりました。神秘と訳しても良いでしょう。この神のミステイオン、神の奥義、神の神秘、神の秘められた計画、それがキリストです。神の独り子が人となって現れ、罪人のためにその罪の裁きをすべて担って十字架にお架かりになる。そんなことを一体誰が考えるでしょう。誰も思ってもいなかった。それほどまでに神様が私のことを愛してくださっているなどと、人は誰も考えたこともなかった。しかし今や、その誰も考えたことさえなかった神様の愛の奥義、秘められた計画が明らかにされた。そのことを知らされたのが私共キリスト者なのです。キリスト者であるか、そうでないか。それは、このことを知っているかどうかの違いです。
元々ファリサイ派であったパウロにとって、このキリストによって現された神の愛が異邦人にまで及んでいるということは、まことに驚くべきことでした。しかし、パウロはあのダマスコ途上の出来事において、イエス・キリストに現れた神の奥義としての愛は、キリスト者を迫害するという完全に神様に敵対していた自分にも注がれていることを知らされました。とするならば、どうして律法を知らない異邦人が排除されましょう。これがパウロに与えられた福音の筋道です。ユダヤ人から見れば、異邦人は神様から見放されている人々、神様を知らず、神様の救いに与ることなど金輪際あるはずのない人々でした。しかし今や、主イエス・キリストの十字架と復活によって、一切の隔ての中垣は取り払われ、神様との親しい交わりの中へと招かれたのです。この栄光が分かりますか。天地を造られた神の子とされたのです。この栄光に比べるならば、地上の栄光など何の輝きも価値もないほどです。キリスト者である。キリスト者となった。それは、この地上のどんなものを手に入れるよりも栄光に満ちたことです。ここにキリスト者の誇りが生まれます。私共がキリスト者となったということは、この地上の命を超えた命に生きる者となったということ。天と地を造られたただ独りの神との親しい交わりを与えられる者となったということ。それはこの国の王様の親戚になったなどということよりも、はるかに栄光に満ちたことなのです。このことが分かるか。この栄光が分かるか。そうパウロは告げているのです。
4.内におられるキリスト
更にパウロは、この秘められた計画、神の奥義は、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」と告げます。キリストが私共の内におられるのです。この教会の交わりのただ中におられるのです。そのことが少しでも分かれば、キリストの教会の一員とされたということの栄光がどれほどのものであるかが分かるでしょう。この栄光の希望は、私共の肉体の死を超えて、永遠の命へとつながるものです。この地上の栄光はやがて消えていきます。形のあるものはすべて消えていく。しかし、キリストと一つにされた栄光は、やがて神の国の完成に至ります。それまで、決して消えることはありません。その希望が私共には与えられています。この希望に生きるが故に、私共はこの御心に従うための労苦を喜んで担うことが出来るのです。
キリストが私共の内におられるということは、自分の心の中を覗いても分かりません。これは、私共がキリストの十字架と一つにされて一切の罪を赦していただいたということであり、キリストの復活と一つにされて永遠の命に生きる者とされているということです。それだけではありません。キリストの持つ良きものすべて、全き愛、全き献身、全き喜び、全き平安、全き祝福、全き謙遜などが私共に備えられることになったということです。もちろん、そのすべてを既に手に入れたとか、既に身に帯びているという人はいないでしょう。それらは神の国の完成と共に与えられるものです。しかし、私共はそこに向かって生きる者になっているということです。そして、そのために私共は自らの罪と戦わなければなりませんし、そのために労苦しなければならないということです。
神の国は、私共の努力の結果到来するものではありません。この永遠の救いの御計画を為された神様御自身が時を定めて、来たらしめるものです。それはちょうど、イエス様が来られた時と同じです。しかし、それなら私共はただぼーっとその時を待つのかと言えば、そうではありません。その時に向かって、我らの内におられるキリストの導きの中で、罪と戦い、少しでもキリストの良きもので満たされるようにと、労苦をいとわず励むのです。
5.キリストの力によって闘う
パウロは戦いました。1章29節〜2章1節において「闘っている」と繰り返します。その闘いは28節に「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」とありますように、諭し、教えるというあり方での闘いです。拳をあげての闘いではありません。しかし、パウロがいくら諭し、教えてもなかなかうまくいかない、そういう事情もあったと思います。だから、これほど多くのパウロの手紙が書かれることになったのです。それほどまでに、私共の罪は頑固だからです。しかし、理由はそれだけではありません。そもそも、このパウロの闘いは「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となる」ということを目指しての闘いですから、終わりのない闘いなのです。この地上において、私共は決して完全な者となることはないからです。キリストの教会は、この闘いを二千年の間、休むことなく為してまいりました。その闘いは今も継続中です。勿論、パウロは自分が伝道した人々にだけ、自らの罪との闘いを求めたのではありません。彼自身、自らの罪との闘いを為し続けました。彼は自分が語るように生きました。
パウロの労苦は、この闘いのための労苦でした。罪との闘いの労苦です。この闘いをパウロは自分の力や熱心によって為していたのではありません。29節「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘った」のです。私共もそうです。私共の信仰の歩みは、この闘いの労苦を抜きにはありません。私もキリスト者となって43年、伝道者となって33年経ちました。よく続いたものだと思います。皆さんもそうでしょう。キリスト者になって50年、60年、70年。よく続いたものだと思いませんか。この罪との闘いは、サタンの誘惑に対しての闘いでもあります。信仰の歩みにおいて負けそうになったこと、或いは負けてしまったこともあるでしょう。しかし、私共は御国への歩みをやめはしなかった。だから、今朝もここにいる。それは、私の内に力強く働くキリストがおられるからです。神の奥義、秘められた計画そのものであられるキリストが私共の内におられ、力強く働いてくださっているからです。私共は、この秘められた神の計画の証人なのです。
「神様はどこにおられるのか。神様の愛はどこにあるのか。」そう問われたなら、私共は「私がこうしてキリスト者として生きている。そこにすべての答えがある。」そう言って良いのです。どんなにたどたどしい歩みであっても、そのキリスト者としての歩みを守り、支え、導いてくださっているのは、我が内に働くキリスト御自身だからです。このキリストを証しする者、神様の驚くべき愛を証しする者として私共は立てられている。何と栄光に満ちた、畏れ多いほどにありがたいことかと思います。この恵みを共に感謝し、共に祈りをささげたいと思います。
[2019年3月24日]
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