富山鹿島町教会

礼拝説教

「強く、雄々しくあれ」
ヨシュア記 1章1〜9節
ルカによる福音書 1章26〜33節

小堀 康彦牧師

1.ヨシュア=イエス
 六月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。ヨシュア記の最初の所です。
 ヨシュア記は「主の僕、モーセの死後」と書き始めています。聖書のこの箇所の1ページ前を開きますと、モーセの死について記されております。このことから、ヨシュア記は申命記に続く書として記されたものであることが分かります。創世記から申命記までの五つの書は、「律法(トーラー)」と呼ばれ、昔から特別な位置が与えられておりました。この律法を代表する人がモーセです。モーセと言えば律法、律法と言えばモーセです。律法(トーラー)と呼ばれ、旧約の中でも最も大切なものと考えられてきたこの五つの書は、モーセ五書とも呼ばれてきたほどです。この律法の書の最後、五書の最後、それは申命記の最後ですが、それはモーセの死で終わっている。しかも、モーセは約束の地を前にして、約束の地に入ることなく死ぬ。モーセは、四十年の出エジプトの旅をずっと導き続けてきた人です。しかし彼は、イスラエルの民がこれから入っていく約束の地をネボ山の山頂から見渡すことは許されましたけれど、約束の地に入ることは許されず、ヨルダン川を前にして死ぬ。そのモーセの後継者として立てられ、イスラエルの民をヨルダン川を渡って約束の地へ入るよう導くのが、ヨシュアです。
 ヨシュアをギリシャ語読みしますと、イエスとなります。新約聖書はギリシャ語で書かれておりますので、先ほどルカによる福音書1章の受胎告知の場面をお読みしましたが、マリアは天使ガブリエルにこう告げられます。31節「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」この「イエスと名付けなさい」は、ギリシャ語だからこうなるのですが、マリアはギリシャ語を話していたわけではありません。へブル語ないしはアラム語を話していました。ですから、天使ガブリエルによってマリアに告げられた言葉は「ヨシュアと名付けなさい」ということだったはずです。
 これは、モーセは約束の地には入れなかったが、ヨシュアによってイスラエルは約束の地へ入ったということ。つまり、律法では約束の地には入れなかったが、イエス様によって約束の地へ入る、そのことを預言している。そのように読むことも出来るのではないかと思います。

2.旅する民としての神の民
 出エジプトの旅は、神の民イスラエルが神様から律法を与えられ、契約を結び、約束の地への四十年にわたる旅でした。しかし、この旅はモーセの死に象徴されておりますように、旅を始めた第一世代は約束の地に入れませんでした。四十年間の荒野の旅の途中で、彼らは死んでしまうのです。第一世代の中で約束の地に入れたのは、ヨシュアとカレブの二人だけです。この出エジプトの旅は、エジプトから約束の地カナンへという地上の旅、空間的旅でした。この旅は、神の民が旅する民であるということを示しました。この時からずっと私共に至るまで、神の民は旅を続けています。それは空間的な旅、地上のA地点からB地点への旅ではなく、時間的な旅、やがて完成する神の国に向かっての旅であり、この旅を続けるのが神の民、旅こそ神の民の歩みだということを示しています。
 モーセは死にました。しかし、旅は終わりません。ヨシュアに引き継がれ、神の民は旅を続けます。ヨシュア記において、イスラエルの民はヨルダン川を渡って約束の地に入ります。しかし、そこには既に住んでいる人々がいるわけです。先住の人々との戦いは不可避でした。ヨシュア記は12章までがその戦いについて、13章以降は十二部族のどの部族がどの地域に住むことになったかが記されています。これから、12章までの所を少しずつ読み進めていこうと思っております。

3.ヨシュアについて
ヨシュアはモーセの従者でした。モーセのそばでモーセの言葉を聞き、行動を見、様々な奇跡をも見てきていました。そして、神様がモーセと共におられること、モーセは神様の言葉を聞き、神様の導きを受け、神の民イスラエルを導いていること、それを一番近い所で見て知っていたのがヨシュアでした。
 ヨシュアについて、律法に記されている幾つかのエピソードを見てみましょう。
@まず、民数記13〜14章、主の言葉に従い、モーセが各部族から一人ずつ選んでカナンの地を偵察させた時のことが記されています。四十日の後、偵察に行った者たちが戻って来ました。彼らはこう報告しました。「そこは乳と蜜の流れる所でした。しかし、その住民は強く、町は城壁に囲まれ、大きく、巨人がいた。自分たちはいなごのように小さく見えた。」それを聞いたイスラエルの人々は、「エジプトへ帰ろう。」と言い出したのです。この時、「主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」と主張したのが、ユダ族のカレブとエフライム族のヨシュアでした。二人だけです。神様は、御自分を信頼しないイスラエルの民は四十年の間、荒れ野を旅しなければならないとされました。そして、第一世代はこの旅の途中で死ななければならないとされたのです。ただ、カレブとヨシュアだけが生き残ったのです。
A出エジプト記17章8節からのアマレクとの戦いにおいて、イスラエルを指揮したのがヨシュアでした。この時の戦いは、モーセが丘の上で祈り、イスラエルが勝利しました。
Bまた、出エジプト記24章で、モーセが神様との契約を記した石の板を神様からいただいた時、ヨシュアはシナイ山の中腹でモーセを待っていました。イスラエルの民が金の子牛を造って祭りをしていた時も、ヨシュアはモーセと共に山を下っていました。彼は金の子牛を拝むという罪を犯しませんでした。
Cそして、民数記27章において、ヨシュアはモーセの後継者としてイスラエルの民全体の前で任職されています。
このように見てまいりますと、ヨシュアはいつもモーセと共にあって、イスラエルの人々が犯した、神様を信頼しない罪を犯すこともなく、戦の指揮も出来る、理想的な後継者であったと見ることが出来るでしょう。しかし、モーセが死に、自分がイスラエルを約束の地に導き上らなければならなくなった時、彼の中に恐れが生じました。そのヨシュアに対して告げられた神様の言葉が、今朝与えられております御言葉です。

4.強く、雄々しくあれ
 ここで、「強く、雄々しくあれ」という言葉が、6節、7節、9節と三度繰り返して告げられます。このように繰り返し神様が告げられたのは、ヨシュアの中に、うろたえ、おののき、恐れる思いが生じていたからなのでしょう。ヨシュアに与えられた使命の重さを思うならば、当然とも言えましょう。ヨシュアはモーセを近くに見てきました。あの偉大なモーセのように自分がイスラエルの民を導けるだろうか。また、イスラエルの民が不信仰で度々モーセを悩ませたことも知っています。この不信仰なイスラエルを自分は導いていけるだろうか。そう思って恐れても当然です。
 私は、この恐れを抱いたヨシュアこそ、神の民を導くのにふさわしい者だったと思います。ヨシュアは自分の弱さを知っています。自分には、与えられた使命を果たすのに十分な力がないことも知っています。だから恐れる。しかし、それを知って恐れる者であるが故に、神の民を導く者としてふさわしいのです。何故なら、神の民はただ神様の導きによって歩まなければならないからです。ヨシュアに求められているのは、神の民と共にいてすべての道を開いて導いてくださる神様を信頼することです。

5.主の命令と約束@
 神様はヨシュアに為すべきことを命じられると共に、約束を与えられました。この神様の命令と約束はセットになっています。神様は、ただヨシュアに「こうしなさい。」と命じるだけではなくて、「わたしがこうするから大丈夫。」という約束も同時に告げられます。神様の祝福の約束と神の民として生きるための命令。これは分けることが出来ません。祝福の約束だけを受け取ることは出来ません。神の民として生きる命令だけということもありません。この二つはいつもセットです。
 2節「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」これがヨシュアに与えられた使命です。そして、3節「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」これがヨシュアに与えられた約束です。ここで「あなたたちに与える」と訳されている言葉は完了形で記されています。つまり、「もう既にあなたたちに与えている」と神様は言われたのです。ヨシュアはまだヨルダン川を渡っていません。ですから、まだ約束の土地を獲得していません。しかし、神様は「既に与えている」と言われる。つまり、ヨシュアと共に歩むイスラエルは、既に神様によって備えられているものを受け取るだけなのです。しかし、まだ獲得していないのですから、ヨルダン川を渡って行かなければなりません。自分たちの足でその土地を踏んでいかなければなりません。しかし、一歩を踏み出していけば、あとは神様によって既に備えられているものを受け取るだけなのです。
 私共が神の国に入ることになっているということもそういうことです。イエス様を信じて信仰の歩みを為していくならば、約束の神の国に至ることになっている。それは既に与えられているのです。ただ私共は、神様の救いの約束を信じて、御国に向かっての歩みの一歩を踏み出していけば良いのです。

6.主の命令と約束A
 5節「一生の間、あなたの行く手には立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」これが約束です。そして6節「強く、雄々しくあれ。」これが命令です。9節「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。」これが命令です。そして、「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」これが約束です。神様は「強く、雄々しくあれ。」と命じられますが、むやみに「元気を出せ。」と言われたのではありません。「モーセと共にいたように、あなたと共にいる。」と言われました。ヨシュアは、神様がモーセと共にいて、モーセの歩みのすべてを導いておられたことをつぶさに見ていました。「モーセと共にいたように」この言葉はどれほどヨシュアを励まし、力づけたことでしょう。
 ヨシュアは、ヨルダン川を渡った先に強い敵が待っていることを知っていました。以前、カナンの地に偵察に行った時、自分とカレブ以外の偵察は、町々の大きさ、人々の強大さに恐れをなしました。そして人々はエジプトに帰ろうと言い出した。ヨシュアだって、大丈夫だろうかとの思いもあったでしょう。しかし、神様はそのヨシュアの心を見透かすかのように、「一生の間、あなたの行く手には立ちはだかる者はないであろう。」と告げるのです。ヨシュアは、エジプト軍に追われた時に海が二つに割れた出来事を思い起こしたかもしれません。
 神様がモーセを召し出した時もそうでした。モーセの中の不安を一つ一つ消して、主の召しに応える者へと導いてくださいました。ただ、ヨシュアはここで一つのことをはっきりさせなければなりませんでした。それは、この神様の約束を信じるかどうかです。神様の言葉を信じるかどうかです。これを信じることさえ出来れば、ヨシュアは強く雄々しくなれるのです。しかし、これを信じることが出来なければ、強く雄々しくあることは出来ません。
 私共もそうです。「主が共におられる。主は私を見放すことも、見捨てることもない。」この主の約束を信じるかどうかなのです。この約束は、ヨシュア個人に与えられたというよりも、神の民に与えられたものです。神の民は、この神様の約束を信じて、約束の地に向かっての旅を続けたし、今も続けています。マリアは天使から、「主があなたと共におられる。恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられました。マリアは、この言葉をすぐに信じて納得したわけではありませんでしたけれど、「神にできないことは何一つない。」と告げられて受け入れます。神の民はいつも、「恐れるな。雄々しくあれ。主が共におられる。」との言葉を聞き続けてきました。この神様の言葉に励まされ、神の国への歩みを為し続けているのが神の民なのです。

7.主の命令と約束B
 更に7節で、神様は「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれはならない。」と告げられます。これが命令です。そして、「そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」と告げられます。これが約束です。また、8節「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていくことをすべて忠実に守りなさい。」これが命令です。そして、「あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」これが約束です。
 律法を忠実に守る。右にも左にもそれない。律法を昼も夜も口ずさむ。そうすれば、どこに行っても成功し、栄えると言われるのです。この「律法を忠実に守る。右にも左にもそれない。律法を昼も夜も口ずさむ。」ということは、私共にとっては、イエス様が私のために十字架にお架かりになられたこと、復活されたこと、天に昇られたこと、聖霊が与えられていること、御国に向かって歩んでいること、それらを忘れずに心に刻むということです。そしてまた、いつも祈りと賛美を口にするということでしょう。そうすれば、私共は主の祝福に与り、御国に向かっての歩みをいよいよ確かなものにすることが出来るということです。
 これは、御言葉を信頼し、御言葉と共に歩むならば、主の祝福が備えられているということです。天の御国における勝利が備えられているということです。私共はその日に向かって、神の民として旅を続けていくのです。

 

[2019年6月30日]

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