1.誰が天の国で一番偉いのか
弟子たちがイエス様にこう問いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」皆さんはこの問いに何と答えるでしょうか。この問いに対しての答えですぐに思い付くのは、「神様です。」という答えでしょう。しかし、これはこの問いの答えにはなっていません。弟子たちは「天の国で」と問うていますが、これはマタイによる福音書の言い方で、ルカによる福音書では「神の国」と言います。マタイは「神」という言葉を用いることは畏れ多いとはばかって、「神」の代わりに「天」を用いました。また、「国」と訳されている言葉は、直訳すれば「支配」ということです。つまり、弟子たちの問いは、「神様が支配する所でいちばん偉いのはだれでしょうか。」という問いなのです。ですから、いちばん偉いのは神様に決まっています。弟子たちが問うているのはそんなことではありません。
神様以外で、イエス様以外で、もっとはっきり言えば「自分たちの中で、イエス様の弟子たちの中で、いちばん偉いのはだれでしょうか。」と尋ねたのです。マルコやルカの同じ記事を読みますと、そのことがはっきり記されております。「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」と記されています。イエス様の弟子たちはそんなことを気にしていたのかと改めて思わされます。イエス様の弟子ともあろう者がそんなことを気にして、これじゃあ私共と少しも違わないではないか。いやいや、私は自分が一番偉くなりたいなんて思っていないから、私よりもひどい。そんな風に思われる方もおられるかもしれません。弟子たちはここで「天の国」「神の国」という言葉を使っておりますけれど、それが一体どういう所なのか少しも分かっていなかったのでしょう。
「天の国」「神の国」は、先ほど申しましたように「神様の御支配」という意味です。ですからこの言葉を、「死んでから行く天国」というイメージで考えない方が良いでしょう。イエス様の到来と共に、天の国・神の国はもう既に来ている。私共は既に天の国に生き始めているのです。勿論、この天の国が完成されるのは、イエス様が再び来られる終末の時です。しかし、天の国は既に私共の所に来ている。そのことを証しするために立てられているのがキリストの教会なのです。教会は天の国そのものではありませんが、天の国の到来を知り、その完成に向かって歩む者たちの群れです。ということは、この弟子たちの問いは、「教会の中でいちばん偉いのはだれか。」ということでもあるのです。
時々、教会の外の人からこの問いを受けることがあります。どうやら、いちばん偉いのが牧師、次に信徒の代表のような人がいて、その下に一般の信徒がいる、そう勝手にイメージしているようなのです。確かに、この世の秩序においては、牧師は宗教法人である教会の代表責任役員で、そのはんこを持っています。ですから、この世の秩序においては、一番偉いということになるのでしょう。しかし、教会のはんこを持っているなんてことは、神様の前では何の意味もありません。それは、ここに集っている皆さんはよく分かっているでしょう。私共は天の国の秩序、神の国の秩序に生きる者だからです。
2.イエス様の答え「子供のように」
だったら、天の国・神の国の秩序において、いったいだれが偉いのか。イエス様はこうお答えになりました。3〜4節「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」イエス様はここで繰り返し「子供のように」と言われました。それは、私共が子供に対して持っている、純真で、汚れがなく、悪意もないというイメージでお語りになったのではありません。私共は、「子供のようになる」というイエス様の言葉をそのように誤解しているのではないでしょうか。「今は汚れてしまったけれど、子供のように純真にならなけば、汚れのない者にならなければ、天国に入ることはできない。」と。しかし、イエス様はそんなことをここで弟子たちに告げられたのではないのです。イエス様が「子供」という言葉を用いられる時、その意味するところは、「自分では何もできない者、役立たずな者」ということです。
この時弟子たちは、自分たちの持っている能力、性格、そんなものを考えてイエス様に問うたのでしょう。「十二人の弟子の中でだれがいちばん神様の御心に適っていますか。」と。「わたしはイエス様に従う熱心さにおいてはだれにも負けません。」「聖書についての知識はわたしが一番です。」「イエス様のことを人に話すことならわたしが一番だと思います。」「わたしは話すのは苦手ですが、行動力なら負けません。」「わたしは口下手ですし、行動するのも得意ではありません。でも、だれよりも祈っています。」あるいは、「わたしは真面目さでは負けません。」という人もいたかもしれません。「わたしは皆の意見が対立している時に、調整することは得意です。」「わたしは声が大きく、明るい雰囲気を作れるムードメーカーです。」更には「お金を管理することは任せてください。」そんな人もいたかもしれません。いったいどういう人が神様の国でいちばん偉いのか。いったいどういうことが神様に評価されるのか。神様の御心に適うのか。弟子たちはそのことを知りたかったのです。
それに対してイエス様は、「子供のような人にならなければ」と言われたのです。自分では何も出来ない、何の役にも立たない、そういう者にならなければと言われた。これを聞いて、弟子たちは戸惑っただろうと思います。神様の役に立つ、神様に良しと評価される、それはどんな人かと聞いたら、自分では何も出来ない者、何の役にも立たない子供のような者だと告げられたのです。そういう人でなければ天の国に入ることさえできない。そう言われたからです。弟子たちは、イエス様が何を言われたのか、さっぱり分からなかったと思います。イエス様はここで、弟子たちの問いそのものを否定されているからです。弟子たちはこの世の秩序の感覚で、神の国を考えていたからです。それをイエス様は真っ向から否定されたのです。
3.神の国は、ただ恵み
彼らは、天の国・神の国においては、王様である神様の御心に適う者、神様のお役に立つ者、神様はそれを評価されるはずだ。そう考えていたのでしょう。この世の秩序、この世の常識、この世の論理を、天の国・神の国にも持ち込んだのです。イエス様はそれに対して、はっきりと否と答えられた。天の国はそんなものではない。天の国はただ恵みなのだ。憐れみなのだ。何も出来ない、何の役にも立たない子供のような者に与えられる。これが福音です。天の国・神の国に入る。神様の救いに与る。それは、私共の側に何かそれにふさわしいところがあって、それが評価されて与えられるのではありません。パウロの言葉で言えば、「それは報酬であって、恵みではありません。」天の国に入る、神様に救われるということは、ただただ恵みなのです。私共の中にどんなに良きところがあったとしても、神様の救いに値するほどのものではありません。天の国に入れるほどの良きところなど、私共の中にはない。私共の中に良いところが何もないと言っているのではありません。先ほど挙げたものは、みんな良いものです。この世においては、人と人との交わりにおいては大切なものばかりです。しかし、それは自分が救われるためには、天の国に入るには、何の役に立たないということなのです。
だったら、誰が天の国に入れるというのでしょうか。誰も入れないではないか。そう、誰も入れないのです。天の国・神の国においてだれが偉いかという以前に、誰も入れないのです。しかし、私共は天の国・神の国に生きる者とされた。それはただ神様の恵みによってです。神の独り子であるイエス様が私共のために、私共に代わって十字架の裁きをお受けになったが故にです。それ故、ただ信じるだけで、私共は一切の罪を赦され、神の子とされ、天の国に生きる者となった。ただ恵みによってです。これが天の国の秩序です。わたしはこれこれのことが出来ます。こんな能力があります。こんなに熱心です。こんなに神様を愛し従っています。そのようなものは何一つ意味を持たないのです。これが福音です。天の国・神の国の秩序は、始めから終わりまで、この福音によって貫かれているのです。福音によって始められた私共の救い、私共の信仰の歩みを、わたしの業、わたしの熱心、わたしの真面目さで完成させようとしてはなりません。私共は神様の前に立てば、何の役にも立たない子供に過ぎないのです。そして、それで良いのです。そのような私共を、天の父なる神様は「我が子よ」と呼んでくださるからです。まことに有り難いことです。
私共は、年齢を重ねていきますと、どんどん出来ないことが多くなります。どうしてこんなことも出来ないのか、去年までは出来ていたのに、と思うことが多くなっていきます。私もそうです。そして、このように言う方も出てきます。「何もご奉仕出来なくて、すみません。皆さんに迷惑ばかりかけて。」お気持ちは分かります。しかし、教会は天の国・神の国の始まりを証しする所なのですから、そのような気遣いは全く無用なのです。本当に全く無用なのです。私共は元々、何も出来ない、何の役にも立たない者たちなのです。しかし、神様はそのような私共を愛し、赦し、我が子よと呼んでくださった。私共の信仰はそこから始まったはずです。だったら、私共はそこに立ち続けるしかありません。
4.子供のようになられたイエス様
私は、このイエス様の言葉の中に、イエス様の十字架の御姿を見ます。自分を低くして、何も出来ない、何の役にも立たない者になられたのは誰か。イエス様です。イエス様御自身が、子供のようになられたのです。フィリピの信徒への手紙2章6〜9節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」これは「キリスト賛歌」と呼ばれ、パウロが生きていた時代に礼拝の中で歌われていたものと考えられています。誰よりもイエス様御自身が低くなり、小さくなり、十字架の死まで降られた。そして、私共の救いの道を拓いてくださったのです。イエス様に従うとは、このイエス様に従うことです。自らが小さくなり、子供のように何も出来ない者として、ただ神様の憐れみを受ける者として御前に立つ。これしかないのです。
5.主の御名の故に受け入れる
イエス様は続けてこう言われました。5節「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」「このような一人の子供」とは、何も出来ない、役に立たないような者の一人ということです。そういう者をイエス様の名のために受け入れる。何も出来ない、役に立ちそうもない人も、イエス様の福音によって救われ、生かされた者として、神様の愛の御手の中にある人として受け入れる。それが、天の国・神の国を証しする教会のあり方なのだとイエス様は言われるのです。あなたがたは何故救われたのか。それはただ神様の恵み、神様の憐れみによってではないか。だったら、あなたがたもそうしなさい、ということです。とても単純なことです。
この世の秩序と天の国の秩序は全く違います。教会は、天の国の秩序に生きることによってのみ、天の国を証しすることができるのです。天の国には国境も民族も社会的地位も思想的違いもありません。ですから、教会はそれらを超えてすべての人を受け入れるのです。しかし、教会はこの世にあるから、そんなに色々な人を受け入れたら秩序が乱れるではないか。そう思われる方もいるかもしれません。確かにそうかもしれません。しかし、私共はこの世の秩序の中に生きることはできません。それでは、天の国・神の国を証しすることができないからです。
6節以下には「つまずき」ということが語られます。この「つまずき」でイエス様が問題にされているのは、「わたしを信じるこれらの小さな者」です。イエス様を信じている。しかし、何も出来ない。何の役にも立たない。そういう人をつまずかせるなとイエス様は言われるのです。それは、こういうことです。イエス様を信じた。ただイエス様を信じるだけで救われる、神の子とされる、そう信じて教会に加わった。ところが、実際の教会での歩みにおいては、自分は受け入れられていないと感じる。この世の秩序の中と同じように、何が出来る出来ないというところで自分が評価される。同じ神の国を目指す者として受け入れられていないと思う。そして、つまずくのです。これは本当につらい、悲しい問題です。勿論、私共は罪人ですから、つまずく側にも色々問題はあるのでしょう。でも私共は、だから仕方がないとは言えない。イエス様がそう言われないからです。
キリストの教会はいつの時代もこの問題と直面してきました。つまずく人を一人も出したことのない教会なんてありません。伝道者はだれでも、「自分のあの一言で、あの行動で、あの人をつまずかせたのではないか。」そう心に思い浮かぶ人が何人かいるものです。その人のことを思うと、本当に心が痛みます。あの時、こう言えば良かったのではないか。ああすれば良かったのではないか。10年、20年と経ってもその人のことが心から消えることはありません。そこで思わされることは、自分はその人のことを「イエス様の名のために受け入れる」ということが出来ていなかったということです。イエス様の名の故にそういう人を受け入れなかった。だから、受け入れられない人がつまずいた。
本当のことはよく分からないのです。でも、イエス様が、これほどまでにつまずかせることについて厳しく語られている言葉に対して、私は関係ないとはどうしても言えないのです。しかし、そうであるが故に、私はただ「主よ、憐れんでください。」と祈るしかないのです。そして、その祈りの度に、「私には何もない」ということを心に刻まされると共に、それでも神の子とされていることへの感謝で満たされるのです。
私共は今から聖餐に与ります。良きものなど何もない私共のために、イエス様が十字架にお架かりになってくださって、神の国に生きる者としてくださった。神様に向かって「父よ」と呼ぶ者としてくださった。私共はなかなかこの世の秩序の縄目から抜け出せない者ですけれども、それでも神の国の完成を目指して生きる者としていただいています。自らを誇ることなく、ただ主を誇り、小さな者を主の名のために受け入れて、神の国の証人として立ち続けさせていただきたい。そう心から願うのです。
[2019年9月1日]
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