富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第43回

6.「魔術師のおい」(8)

 牧師 藤掛順一


 ディゴリーは、自分が魔女をナルニアに連れこみ、この世界に悪をもたらしてしまったことを知り、愕然としました。しかしアスランは動物たちにこう言いました。「わざわいはその悪からおこるだろうが、まだそれは遠いところにある。そしてわたしは、もっとも悪いことが、わたし自身にふりかかるようにはからおう。その間に、われらは、このさき何千年もの間、このナルニアが、楽しい世界の楽しい国でいられるようなさだめをうちたてようではないか。そして、アダムの血すじの者がこのわざわいをもたらしたのだから、それを退治するにも、アダムのすえの者たちに手伝ってもらおう。」
 「もっとも悪いことが、わたし自身にふりかかるようにはからおう」とは、勿論、「ライオンと魔女」において、アスランが魔女の手にかかって死ぬことです。そのことが、既にこのアスランの言葉において予告されているのです。つまり、アスランが罪ある者の身代わりになって死ぬことによって悪の力が打ち破られることは、この世界の始まりの時からアスランによって決意されていたのです。このことは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しが、世の始めからの神のご意志、ご計画による、という信仰を表わしています。
 「アダムの血すじの者がこのわざわいをもたらしたのだから、それを退治するにも、アダムのすえの者たちに手伝ってもらおう」というのも大事な言葉です。「アダムの血すじの者」即ち人間が悪をもたらしたのだから、それを退治するのも人間であるべきなのです。「退治する」は原文ではheal即ち「癒す」という言葉が用いられています。人間がもたらした傷を人間が癒すのです。しかし正確には、人間が癒すのではありません。癒すのを「手伝ってもらおう」とアスランは言っています。悪を根本的に滅ぼし、救いを与えるのは人間ではなく、アスラン=神なのです。そのことが、「もっとも悪いことが、わたし自身にふりかかるようにはからおう」ということにおいて実現するのです。人間は、自らがもたらした悪とそれによる傷をいやす「手伝い」をするに過ぎません。そのことを、この後ディゴリーが命じられるのですが、その手伝いのために選ばれたのはディゴリーだけではありませんでした。
 そこに、後から追ってきたポリーと馬車屋が着きました。「わが子よ、」とアスランは馬車屋にいいました。「わたしは、ずっと前からあなたを知っていた。あなたは、わたしを知っているか?」「いいや、ぞんじあげましねえだ」と馬車屋。「ともかく、なみのことばでだと、ぞんじあげましねえだ。だが、ぶちまけて申すなら、どういうわけだか、前にお目にかかったような気がしますだ。」「さもあろう。」とライオン。「あなたはじぶんで考えているよりよくわかっているのだ。」
 ここも、アスランの正体?が示されているきわどい場面です。アスランは馬車屋をずっと前から知っていた。馬車屋もアスランに前に会ったことがあるような気がする。この馬車屋は、前回ふれたように、イギリスの田舎で教会の聖歌隊に入っていた男です。そして初めて、まだ何もない暗黒の世界だったナルニアに来た時、皆が恐怖にとらわれていた中で、一番度胸が据わっており、「こういう時には讃美歌を歌うに限る」と歌い出したのも彼でした。そうです。彼はずっと前から、主イエス・キリストを信じる信仰者なのです。その彼が、「前にお目にかかったような気がする」アスラン、彼のことを「ずっと前から知っていた」と言うアスラン、それは主イエス・キリストその人です。彼は主イエスを知り、信じていたがゆえに、アスランに会った時、どこかで会ったような気がしたのです。「朝びらき丸東の海へ」の最後のところでアスランは、「あちらの世界では、わたしは、ほかの名前をもっている。あなたがたは、その名でわたしをわかるように、おぼえていかなければならない」と言いました。それと逆のことがここで起っているのです。馬車屋はあちらの世界で主イエス・キリストを知っていたがゆえに、ナルニアでアスランに会った時に、初対面ではないと感じたのです。
 アスランは馬車屋に、「この国にずっと住みたいと思うかな」と尋ねます。彼は「もし女房がここにいたら、おらたちはどっちもロンドンに帰りたいとは思いますめえ。ふたりとも、しんからの田舎もんでごぜえますで」と答えます。アスランはその魔法の力でたちどころに彼の奥さんをそこに連れて来ました。そして彼ら夫婦に、「あなたがたはナルニアのさいしょの王と女王になるのだ」と言ったのです。彼らもまた、ナルニアを守る手伝いのために選ばれた「アダムの血すじの者」だったのです。
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