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「ナルニア国物語」について 第60回7.「さいごの戦い」(13)牧師 藤掛順一
さてここからがいよいよ、ナルニアにおける「この世の終わり」の描写です。アスランはうまやの戸に近づき、「うなりをあげました。『時がきた!』そしてもう一度さらに大きく『時だ!』と叫びました。それから、空の星々をふるわすほどの大声で、『時よ!』とほえました。戸は、さっと、ひらきました」 一同は戸の向こうに、夜のナルニアを見ました。すると北方の荒地地帯に、とほうもなく大きな巨人が現れました。それは第四巻『銀のいす』において、ユースチスとジルが、地下の国で眠っているのを見た、「時の翁」(原文においては Father Time)と呼ばれていた巨人でした。彼は、この世の終わりに目をさますと言われていたのです。アスランは言いました。「これまで夢を見ながら眠っていたあいだは、あの人の名は、時というものだった。だが、目をさました今は、新しい名まえとなるだろう」。時とは、時の翁(時の父)の夢であり、目覚めたなら時はもはや時でなくなるのです。それは、時間の流れの中にある今のこの世が夢幻の世界であるということと、世の終わりにおいてその夢幻から覚めるならば、もはや時間というものはなくなる、ということを言い表しています。世の終わりは時間の中の一こまではなく、時間そのものの終わりなのです。時間もまた、神によって創られ、神によって終わる被造物なのです。 時の翁が角笛を吹きました。すると無数の星たちが天から降(ふ)ってきました。彼らは人の姿をした「星人」(ほしびと)でした。このことは、「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイによる福音書第二四章二九節)という聖書の言葉とつながります。 明るく輝く星人たちが背後に立ち、その光に照らされて闇に包まれた世界が浮かび上がりました。すると、全世界から、あらゆる生き物たちが、アスランの立つ戸口に向けて走り寄って来るのが見えました。 けれども生きものたちが、アスランのところまでくると、そのものたちに二つのうちいずれかのしわけができていたのです。さしかかった生きものたちは、アスランの顔をまっすぐにながめました。おのずからふりあおがなければならないようになっていたのでしょう。そしてなかには、アスランをながめて、表情がさっとはげしく変わるものがあります。それはおそれとにくしみの表情でした。それでも、ものいう動物の顔にうかぶ、おそれとにくしみの色は、ほんのちらりとしかつづきませんでした。見ているまに、そういう動物たちは、ふっとものいうけものでなくなって、ごくふつうのけものになってしまうのです。こういう表情をしてアスランをながめた生きものたちは、右の方に、つまりアスランの左側に道をそれて、戸口の左に落としているアスランの大きな黒い影のなかにはいって、見えなくなっていきました。子どもたちは、もうその連中を二度とみかけませんでした。わたしも、どうなってしまったのか、知らないのです。ところで、そういう者たちのほかは、アスランの顔をあおぎみて、なかにはひどくおそれてしまう者もありますけれども、おそれながらも、アスランを心から愛する生きものたちでした。それらの者はみな、戸口へ、つまりアスランの右がわにはいりました。」 ここに描かれているのは、いわゆる「最後の審判」です。世の終わりに、キリストによる審きが行われる、そこにおいて人間は、救われる者と滅びる者とに分けられるのです。その審きの基準は、生きている間にどんな良いことをしたか、ではありません。ここにも描かれているように、アスランを(キリストを)愛しているか、それとも憎んでいるかです。キリストを愛しているもの(信仰者)にとって、「最後の審判」は恐ろしい時ではなく、愛するキリストにお会いする喜びの時、救いの時なのです。 戸口をくぐった者たちの中には、既に死んでしまった者たちもいました。これも、生きている者と死んだ者全てが審きを受けるという聖書の教えからくることです。うまやの戸口はまさに救いの戸口となったのです。 |
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