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「ナルニア国物語」について 第8回1.「ライオンと魔女」(7)牧師 藤掛順一
よみがえったアスランは、スーザンとルーシィを背中に乗せて魔女の館に向かいます。そこには魔女によって石にされた多くのナルニアびとたちの石像が立ち並んでいました。アスランが息を吹きかけるとそれらの石像に命が戻りました。その中には、ルーシィをかくまってくれたあのタムナスもいました。 アスランは石像からよみがえったナルニアびとたちを引き連れて、ピーターたちが魔女の軍勢と戦っている戦場へと急ぎます。ピーターたちは苦戦していましたが、アスラン率いる援軍の到着によって形勢は逆転し、アスランを見た魔女は、恐れと驚きのうちにアスランに組み伏せられ、倒されます。ナルニアを永遠の冬に閉じ込めていた「白い魔女」はついに滅ぼされたのです。 この戦いで多くの者が傷つきました。中でも最も我が身を顧みずに戦ったのはエドマンドでした。彼は、ナルニアびとを石に変えていた魔女の魔法の杖をたたきこわし、その際に瀕死の重傷を負ったのです。今度はルーシィの出番でした。あの、サンタクロースからもらった、どのような傷も病も癒すという魔法の薬によって、ルーシィはエドマンドを始め、この戦いで傷ついた人々を治療したのです。 翌日、彼らは東の海辺にあるケア・パラベルの城へと向かいました。そしてその城で、アスランによって、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィのナルニア王としての戴冠式が行われました。アスランはこのように言って彼らを祝福しました。 「ナルニアに王、女王となったものは、永久にかわらず、王、女王である。その位をつくせ、アダムのむすこどの、そのつとめをはたせ、イブのむすめごたち」 四人の王、女王の戴冠の祝いの中で、アスランは静かに去っていきました。ビーバーさんはこう言いました。「あの方は、きてはいってしまわれるのです。きょうお会いしても、あすはいません。何事にもしばりつけられるのが大きらいな方なのですよ。きっと、よその国々のことも気をくばって見にいらっしゃるのです。そのままにしておきなさい。時々、ふらりといらっしゃいますよ。なんといっても、あの方は、自然児なんです。かいならされたライオンじゃありませんからね」。 ここにもいくつかの大事なポイントがあります。「よその国々のことも気をくばって見にいらっしゃる」、これはアスランがこのナルニアのみの主なのではなくて、全世界の主であられることを示している言葉です。そしてその「よその国々」は、ナルニアのあるこの世界の中の他の国々というだけではないのだということが、読み進めていくことによってわかってくるのです。また、アスランは飼いならされたライオンではないというのも大事なポイントです。人間に飼いならされ、人間の願いや都合のために利用されるような存在ではない、自由な存在、主人であられる、それはやはり主イエス・キリストに当てはめることができる大事な真理です。そしてこの「かいならされたライオンでない」ということが、私たちの信仰にとって大きな課題、試練となり、受け止め方を間違えばつまずきの原因にすらなるということが、最終巻「さいごの戦い」において語られていくのです。そういう意味では、この第一巻におけるビーバーの言葉は、最後の巻への伏線となっていると言うこともできるのです。 さて、四人のきょうだいが王、女王となり、ナルニアは平和な黄金時代を迎えます。彼ら四人は立派な王、女王に成長し、「英雄王ピーター、やさしのきみスーザン、正義王エドマンド、たのもしのきみルーシィ」と呼ばれるようになります。そのようにナルニアに何年も暮らすうちに、彼らはもとの世界のことを忘れてしまいました。ところがある時、彼らが、捕まえた者の願いをかなえると言い伝えられる白いシカを追って、森の奥に入っていくと、そこにあの街灯が見え、そしてさらに進んでいくと、あの衣装だんすを通って学者先生のお屋敷に戻ってしまいます。すると不思議なことに、彼らはもとの子供に戻っており、何年もナルニアで暮らしたはずなのに、時は彼らがそろって衣装だんすに入ったその日、その時だったのです。このようにナルニアとこちら側の世界とでは、時間の流れ方が違っていて、ナルニアでいくら時を過ごしても、こちらの世界へ戻ってみると少しも時間が経っていないのです。このことは、この「ナルニア国ものがたり」の構成上の技巧です。この設定のゆえに、同じ人がナルニアの誕生から滅亡までの、数世紀に渡る歴史を体験することができるのです。 こちらの世界に戻った子供たちは、あの学者先生にだけ、自分たちの体験した冒険のことを語りました。学者先生は彼らの言葉を疑うことなく信じ、そして彼らに、アスランが「ナルニアの王、女王となった者は永久にナルニアの王、女王だ」と言ったのだから、君たちはきっとまたナルニアに戻ることができる、と約束してくれました。つまりナルニアの冒険は始まったばかりだと。 以上で第一巻「ライオンと魔女」の解説を終りますが、おわかりのように、この第一巻には、この物語全巻の基本となる事柄が描き出されているのです。その中心は言うまでもなく、罪のないアスランが罪人の身代りになって死に、そしてよみがえることによって、罪と死の力が打ち破られ、救いがもたらされる、ということです。キリスト教信仰の根本であるキリストによる贖罪がここに描かれています。そういう意味で、「ナルニア国ものがたり」はやはりこの第一巻から読んでいくことが、この物語の理解のために最もよいと言えるでしょう。ナルニア誕生の話は、第六巻の「魔術師のおい」に語られており、こちらの方がナルニアの年代記としては「ライオンと魔女」よりも先になるのですが、やはり最初に書かれた「ライオンと魔女」を第一巻とすべきです。私は先年イギリスの本屋さんで、このナルニア国ものがたりが、ナルニア国年代記として、「魔術師のおい」を第一巻とする形で発行されているものを見ましたが、それは浅はかな「余計なお世話」であると思いました。 またついでに、第一巻「ライオンと魔女」についている「訳者あとがき」に触れておきたいと思います。そこには著者C・S・ルイスについての紹介や、全七巻の流れの説明、この物語の特徴についての解説がなされており、この物語がキリスト教信仰によって書かれていることも説明されていて有意義なのですが、ただ一つ、次の文章だけは疑問を感じます。「ナルニアとは、人間のなかにある永遠の善と悪の戦いによせた象徴のことだと言えるかもしれません」。果してそうでしょうか。「ナルニア国ものがたり」は、人間の中の善と悪の戦いの物語なのでしょうか。「ライオンと魔女」を読んだだけでも、善と悪は人間の心の中にあるのではなく、外にあって人間を捉えるものとして描かれており、その戦いも人間の心の中でなされるのではなく、ある意味では人間が全く手を出すことのできないところでなされ、そこにおける神の勝利に人間があずかるのだ、ということが語られていることがわかるはずです。それを「人間のなかにある善と悪の戦い」という月並みな道徳的感覚で説明してしまうのは、語られている深い宗教的真理への無理解と言わざるを得ません。そしてそういう無理解は日本ではしばしば見られます。例えば「ベン・ハー」という映画について、日本人の映画解説者が「すばらしい愛の物語」とか「人間の愛の勝利」などと言っているのを聞いたことがあります。しかしあの映画は明確に、人間の憎しみと復讐の思いがキリストの愛と十字架の犠牲によってぬぐい去られ、憎しみに生きる者が信仰に生きる者へと変えられた、ということを語っているのです。何でも「人間の中の善悪の戦い」とか「愛の大切さ」という言葉で説明してわかったようなつもりになってしまうところに、日本人の浅薄な宗教理解があるように思います。「訳者あとがき」のあの文章にも、そういうことを感じてしまうのです。 |
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