2.この家で行われていること
礼拝の家
さて、この家に入るための「入口」のところで、随分時間を費やしてしまいましたが、とにかく、一つの教会という入口からこの家の中に入ったあなたは、そこで何を見るでしょうか。それは先ず、人々が「礼拝」をしているところだろうと思います。教会というのは、礼拝をするところです。仏教ではこれを「らいはい」と読むようですが、私達は「れいはい」と読んでいます。それは神様を拝むことです。あるいは、英語で礼拝のことをサーヴィスと言うことからもわかるように、神様に「奉仕」すること、「仕える」ことです。毎週日曜日に教会堂に集まり、神様を拝み、神様に仕える、それが「キリスト教徒」の生活の中心なのです。キリスト教という家は、神様を礼拝する、「礼拝の家」であると言うことができるのです。
けれども、実際に日曜日の礼拝に出席してみて、あなたが感じられることは、「神様を拝む」ということで常識的に抱いていたイメージとかなり違うことが行われている、ということではないでしょうか。プロテスタント教会の、中でも特に私達改革長老教会の流れに立つ教会の礼拝は、まことに簡素な、単純なものです。礼拝堂の中に、拝む対象となるような像は一切ありません。拝むといっても、ひざまづくわけでもないし、柏手を打つわけでもありません。あるいは、一般の人を代表して、神様を拝むための特別な行為を行う祭司(神社の神主のような)はいません。牧師はいますが、そのしていることは、神様を拝むことというよりも、会衆の方に向かってお話をすることです。礼拝のプログラムの中で、お祈りや讃美歌は神様に向かってなされる行為と言えるでしょうが、一番長い時間をかけて行われることは、牧師が、聖書について語る「説教」です。この「説教」が礼拝の中心となっていることは、誰でもすぐに感じることでしょう。つまり、私達の教会においては、説教を聞く、ということによって、神様を拝むことが行われているのです。
説教において語られていることは何でしょうか。それは、牧師の個人的な「感話」や「講演」ではありません。説教には必ず、テキストとなる聖書の箇所があって、それが先に朗読されます。説教はその聖書の言葉の解説、説き明かしです。その聖書の言葉が今私達に何を語りかけているのか、ということを説教を通して聞くのです。つまり、「聖書」が私達の礼拝の中心なのです。礼拝堂の中に、拝むべきものは何もないと言いましたが、あるものは、講壇の上の聖書だけです。聖書を拝むわけではありませんが、それが、神様を拝むための、ただ一つの、かけがえのない手段なのです。
聖書の宗教
キリスト教は、聖書の宗教です。聖書がキリスト教の信仰と生活の規範です。聖書についてのさらに詳しいことは、この伝道パンフレットのシリーズの三、「聖書とは」をお読みいただきたいと思います。ここでは、それがキリスト教の礼拝の中心にあることだけを指摘しておきたいと思います。何故聖書が礼拝の中心にあるのでしょうか。それは、聖書に神様のみ言葉が書かれているからです。神様は、聖書によって私達に語りかけ、ご自身を示して下さっているということが、キリスト教の、特にプロテスタント教会の基本的立場です。私達は、聖書の説き明かしである説教を聞くことによって、神様を拝むのです。私達が神様を知り、拝むことができるのは、大自然を見つめることによってでもなければ、何かの神像の前で手を合わせることによってでもなくて、聖書の説き明かしを聞くことにおいてなのです。礼拝においてあなたは聖書の説き明かしである説教を聞きます。最初のうちは、聖書についての講演を聞いているような感じがするかもしれません。然し、礼拝に繰り返し参加し、説教を聞き続けることによって、人間の言葉だと思っていた説教が、神様からの語りかけ、神のみ言葉であることが納得される時が来ます。それが、信仰の芽生えです。キリスト教の信仰というのは、聖書の中に、そしてその説き明かしである説教に、神様のみ言葉があると信じることから始まるのです。
聖書が、そしてその説き明かしである説教が語っていることは何でしょうか。それは一言で言ってしまえば、イエス・キリストのことです。キリストは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ五・三九)と言っておられます。この聖書とは旧約聖書のことですが、私達はそこに、新約聖書をも含めて考えてよいでしょう。聖書は、主イエス・キリストのあかしをしている書物です。その説き明かしである説教も、主イエス・キリストのことを語っているのです。その説教を中心としてなされる礼拝は、私達が、イエス・キリストとお目にかかり、その恵みを受け、イエス・キリストと共に生きる者となる時です。神様のみ言葉を聞くことによって起こるのは、この、イエス・キリストとの交わりなのです。この家で行われていることの中心である礼拝は、聖書のみ言葉により、その説き明かしである説教を通して、イエス・キリストとの交わりに生きることなのです。
イエス・キリストとは誰?
イエス・キリストとは何者でしょうか。それについての詳しいことは、本シリーズの七、「イエス・キリスト」をお読みいただきたいのですが、ここでもごく簡単にその生涯をたどってみたいと思います。イエス・キリストは、約二千年前、今日のパレスチナ(当時のユダヤ)のベツレヘムに生れ、ガリラヤのナザレで育ちました。三十歳ごろから、公の宣教活動を始められ、約三年後に、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の総督ピラトの下で十字架の死刑に処せられました(ここまでは、歴史家も確認するところです)。然し三日目によみがえり、四十日にわたって、弟子たちに生きたご自身を現わされ、そして弟子たちの見ている前で天に昇られました(これらのことは、信仰によって受け入れる他はありません)。これが、イエス・キリストの略歴ですが、「イエス・キリスト」というのは、名前ではありません。「イエス」は名前ですが、「キリスト」は称号であり、その意味は「油そそがれた者」です。それは、旧約聖書において預言されていた「メシヤ(救い主)」のことなのです。ですから、「イエス・キリスト」というのは、「イエスはキリスト、即ち救い主である」という、それだけで一つの信仰の告白とも言える表現なのです。然も、そのイエス・キリストは、一人の人間であられたのみではなく、神の独り子、つまりまことの神であられたと聖書は教えるのです。父なる神と、独り子なる神イエス・キリストとの関係についての詳しいことは、本シリーズの六、「神」、七、「イエス・キリスト」をお読み下さい。ここでは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ一六・一六)という告白こそが、キリスト教信仰の根本であることだけを指摘しておきましょう。