3.この家の主人とその招き
頭(かしら)なるキリスト
神の独り子であり、救い主であられるイエス・キリストとの交わりがキリスト教信仰の中心です。それならば、キリスト教というこの大きな家の主人は誰であるか、ということも、明白です。それは、イエス・キリストです。そのことを聖書は、キリストは「教会の頭(かしら)」であると言い表わしています(コロサイ一・一八)。キリスト教信仰というのは、この頭なるキリストのもとに集い、キリストとの交わりに生きることなのです。教会というのは建物のことではなくて、このキリストを頭とする信仰者の共同体なのです。それは単にそういう同志の集まりというだけではなくて、「キリストのからだ」であると言われています(エペソ一・二三)。信仰者たちは、キリストのからだの「肢体(からだの部分)」なのです。(Tコリント一二・一二〜二七)。「キリストのからだ」である「教会」という共同体のメンバーとなって生きていくことが、「キリスト教」という家に住む「キリスト者(クリスチャン)」の信仰生活なのです。
神の招き
クリスチャンは、「キリストのからだ」である「教会」に加わることによって、「キリスト教」という家に住んでいる者ですが、誰も生まれつきそこに住んでいたわけではありません。この家の主人であられるイエス・キリストによって招かれて、そこに住むようになったのです。主イエス・キリストは、私達をこの家へと、父なる神様の下へと招くためにこの世に生れて下さった方です。生れつきの私達人間は、天地の造り主であられる神様との正しい交わりを失ってしまっている者です。それは、私達が、神様を神様として崇め従わずに、自分が神になって、自分の思いを中心として生きようとする傾向を持っているからです。「創世記」第三章のいわゆる「失楽園」の話は、「神のようになれる」という誘惑によって神様の命令に背いていく人間の姿、そのために神様とのよい交わりを失ってしまった人間の姿を描いているのです。それが、聖書が語る人間の「罪」です。つまり、「罪」というのは、神様との正しい服従の関係を破り捨てて、自分が神の座に座ろうとすることなのです。そういう意味で、すべての人間は罪人(つみびと)なのです。人間の罪についてのさらに詳しいことは、本シリーズの二、「人間の罪とは」をお読み下さい。
主イエス・キリストは、そのような罪人を、神様のもとに立ち帰らせるために来られました。然もそのことを、ただ、「帰って来なさい」と言うことによってなさるのではなく(そういうのは「倫理」「道徳」です。倫理や道徳によっては、人間の罪の問題は解決しません)、ご自身が、人間の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることを通して、私達の罪を「ゆるしてくださる」ことによって、私達を神様のもとに立ち帰らせて下さるのです。神になろう、という欲望によって傲慢に上へ昇っていこうとする人間の罪と、それによって破れてしまった神様と人間の交わりを、神様がご自分を低くして人間になって下さり、然も十字架にかかって死刑になって下さるまで徹底的に謙遜を尽して下さったことによって解決し、交わりを回復して下さったということです。神様はそのようにご自身を犠牲にして、私達に大いなる、恵みに満ちた招きを与えていて下さるのです。
招きに応えて
独り子イエス・キリストによるこの神様の招きの事実を、聖書を通して示された時に、私達の心に、この招きを感謝して受け、それに応えよう、という思いが与えられるのです。それがイエス・キリストを信じる信仰です。キリスト教の信仰とは、根本的に、神様の救い、恵み、招きへの「感謝、応答」という性格をもっています。それは、倫理、道徳とは違うのです。努力してよい人間になろう、人を愛することのできる者になろう、というのは、キリスト教の信仰の中心ではありません。よい人間になり得ない、人を愛することのできない者であるこの私を、神様が愛して下さり、私の罪のゆるしのために主イエス・キリストが死んで下さった、そのことを感謝して受けることが信仰の中心なのです。そしてその感謝、恵みへの応答の中で初めて私達は、よい人間となる努力をすることもできるし、人を愛する努力をすることもできるのです。「キリスト教」という家に住むこと、信者となることを、何か厳格な道徳的生活をすること、清く正しく生きること、のように思っておられる方があるならば、それは間違ったイメージです。この家に住むことは、ただひたすら、罪人を招いてよい交わりを与えて下さる神様に感謝し、自分の資格を無視して、その招きにあずかることに他ならないのです。