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「ナルニア国物語」について 第3回1.「ライオンと魔女」(2)牧師 藤掛順一 ルーシィの気がおかしくなったのではないかと心配したピーターとスーザンは、学者先生に相談しました。二人の話を聞いた学者先生は、「ルーシィの話が本当でないとどうして決めたのか」と問い返します。先生の言うには、論理的に考えて可能性は三つ、(1)ルーシィがうそをついている、(2)ルーシィの気が違った、(3)ルーシィは本当のことを言っている、です。その内(2)でないことは、様子を見ていればわかる。(1)に関しては、ピーターもスーザンも、これまでエドマンドよりもルーシィの方が正直だったと認めている。だとすれば、他の確たる証拠がない限り、ルーシィは本当のことを言っていると考えるべきだ、と言うのです。それが、本当に論理的にものを考えることだと彼は言います。これは著者の重要な主張の一つです。別の世界などあり得ない、という常識に捕われているのは、本当に論理的な姿勢ではないのです。その別の世界を、神様の存在、神様のご支配、イエス・キリストの恵みに置き換えることができるでしょう。信仰をもって生きることは、論理的であることをやめることではありません。目に見える世界しか見つめることができないことから生じる人間の思い込みや常識を越えた、より深い論理に目を開かれることなのです。 さていく日かたって、四人のきょうだいは、屋敷の見学者たちの目を避けるために、やむを得ずあの衣装だんすに隠れることになりました。そしてついに、四人そろってナルニアに行ったのです。 四人はルーシィの案内でフォーンのタムナスの家を訪れます。ところがその家はめちゃめちゃに荒らされ、床には、女王の秘密警察長官の署名入りの、タムナスが反逆の罪で逮捕されたことを語る文書がありました。エドマンドが話してしまったので、タムナスがルーシィをかくまったことが女王(白い魔女)に知れてしまったのです。彼らは、何とかしてタムナスを助け出さなければと考えます。その時彼らは、一羽のコマドリを見つけます。コマドリは彼らの道案内をするように、木から木へと飛び移っていきます。その後についていくと、今度は一頭のビーバーが彼らを手招きしています。それは人の言葉をしゃべるビーバーでした。ビーバーは、ルーシィがタムナスに渡したハンカチを持っていました。逮捕されるという噂を聞いたタムナスがビーバーに託したのです。そしてビーバーは彼らの耳もとで「アスランが動きはじめたという噂です。もう上陸したころでしょう」とささやきます。ここに「アスラン」の名が初めて登場します。子どもたちはまだアスランが誰であるのかを知りません。しかしその名を聞いた時、それぞれが不思議な感じを抱きました。「アスランの名をきいて、子どもたちはめいめい、心のなかで、どきんと感じました。エドマンドは、わけのわからないおそれのうずにまきこまれました。ピーターはふいに強くなって、なんでもやれる気がしました。スーザンは、なにか香ばしいにおいか、うつくしい楽の音がからだをつつむ思いでした。そしてルーシィは、朝目をさましてみたら、たのしい休みか、喜ばしい夏がはじまった時のような気もちを味わいました」。アスランこそ、ナルニアにおける主イエス・キリストです。そのみ名は、それぞれの心に、それぞれなりの思いを引き起こすのです。それは基本的には、人を強め、力づけ、喜びに満たす名です。しかし、魔女の手先になっているエドマンドにとっては、恐れを引き起こす名なのです。 ビーバーは自分の家に四人を案内し、彼らはビーバー夫妻のもてなしを受けます。ビーバーは、タムナスが魔女の館に連れて行かれ、おそらくは石に変えられてしまっただろうと語りました。何とかして助け出したいと言う子どもたちに対してビーバーは、あなたがたの力ではそれはできない、しかしアスランが動き出した、アスランこそ、タムナスを助け出してくれる方だと言います。彼は、子どもたちをそのアスランのところへ連れて行くために迎え入れたのでした。子どもたちは、不思議な気持ちを引き起こすアスランとはいったい誰なのかと質問します。それに対するビーバーの答えは、この物語においてアスランがどのような存在として描かれているかを知る上で重要です。ビーバーは、アスランとは「王さまですよ。この森のつかさ主ですよ。でもしょっちゅういるわけではないんです。わたしの時代にも、またわたしの父の時代にも、アスランは、ここにいませんでした。ですが、とうとうもどってきたという知らせがあったんです」と言います。そして彼はナルニアの古い歌を紹介します。「アスランきたれば、あやまち正され、アスラン吼ゆれば、かなしみ消ゆる。きばが光れば、冬が死にたえ、たてがみふれえば、春たちもどる」。つまりアスランは、魔女による冬に閉ざされてしまっているナルニアびとたちの待ち望んでいる救い主なのです。子どもたちが「その方は人間ですか」と問うとビーバーは「アスランが人間ですって?もちろん、ちがいます。あの方を森の王だといいましたが、海のかなたの国の大帝のむすこでもあります。けものの王がだれだかごぞんじないでしょうか?アスランはライオンですよ、ライオン王、偉大なライオンなのです。」と答えます。「海のかなたの大帝の息子」というところに、アスランが「神の子」であることが示されています。そしてこの「大帝」は、ただ海のかなたの別の国の皇帝ということではなくて、ナルニアを含むこの世界全体の大帝、支配者なのです。そのことが次第に明らかになります。また、アスランがその大帝の息子であるということは、アスラン自身が父である大帝の掟、命令に従う者であることを意味します。そのことも、この物語の重要なポイントの一つです。そしてこれらのことは、主イエス・キリストが、天地の造り主にして支配者であられる主なる神の独り子であられ、父なる神に従順に従う方であられることと重なるのです。 ライオンに会いにいくなんてびくびくしてしまう、とスーザンが言うと、ビーバー夫人が「たしかにそうですとも。アスランの前に、ひざまずかないで出ていけるひとがいたら、それこそ、たいした勇士か、たいへんなばかなんですわ」と言います。ルーシィが、「それじゃ、危険なんじゃありませんか」と聞くと、ビーバーは「危険か安全かなどということは、問題にならないんですよ。しいて申しあげれば、もちろん、あの方は安全ではありません。けれども、よい方なのです。」と言います。ここのところの原文には「危険」という言葉は全く使われていません。ルーシィが問うたのは、アスランは「安全でない」のではないかということです。それに対してビーバーが「安全?誰が安全なんていうことを言いましたか。勿論あの方は安全ではありません。けれども、よい方なのです」と答えているのです。生けるまことの神であり救い主である方は、私たちにとって「安全」な方ではなく、「よい」方です。私たちはその方をお守りのように自分のポケットに入れてしまうことはできないのであって、その方の前に畏れかしこみつつひざまづくべきなのです。そうすることによって初めて、まことに「よい」方であるその救い主の恵みにあずかることができるのです。 |
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